「沢、何を話しておる」 と……座敷のほうから大声がしてきた。 沢はハッと気づいたように歩き出し、 「こちらでございます。旦那様、お連れいたしました」 と座敷の中へ四郎を促した。 「下がっていなさい」 湊屋が沢をジロッと睨んでそう言うと、沢は四郎に会釈をして下がっていった。 四郎は湊屋と対座する。 床の間には水墨画が掛かり、その前には一折りの楓が生けられていた。 「やはりお主が湊屋か。見事な造りだな。さぞ一流どころをかき集めたことであろう」 最初に四郎が口を開いた。 「お褒めいただき恐縮でございます」 湊屋はそう言ったが、言葉ほど恐縮している様子は見せなかった。 「それで、何故私を呼んだのだ、湊屋」 湊屋は四郎を見つめてにっこりと笑った。 「長信様、6年間、何をしておられたのです?」 途端、四郎は苦い顔になる。 「羽場殿に聞いたのか」 湊屋は表情を変えぬままさらに言葉を続けた。 「長信様、今まで姿を消しておられたのに、何故また江戸に戻っていらっしゃったのですか? 何故、今さら?」 四郎はふと湊屋を見返す。 湊屋は笑顔を真顔に変えた。 「直接お話しするのは初めてですが、噂を鵜呑みにするならば、あなた様ほどのお方が天下を取る野心などない、というのはおかしくはございませぬか」 「私が、そのために江戸に姿を現した、と?」 四郎はクスッと笑った。 「そう思われても仕方がないこと、そうは思われませぬか、長信様。あなた様にはそれが判っておいでのはずです。将軍家は暴君や愚君ではないにしても、名君ではございませぬ。その上、ご病弱。世嗣君もほとんど床を離れられないと聞いております」 「…………」 「今のままでは幕府は10年もしないうちに倒れましょうな」 湊屋は憂いを含んだ表情で四郎をジッと見つめていた。 四郎は何も答えなかった。 今のところ、何も判らなかった。今、幕府がどういう状態にあるのかを知らなかったのだ。四郎にとっては、それは今に限らずのことではあったのだが。 「長信様、遠くまで見渡してご覧なさいませ。ご自分だけでも、回りだけでも駄目なのです。ご自分を含めて遠くまで見渡してご覧なさいませ。きっと、真実が見えてまいりましょう」 湊屋の言葉に、四郎が暫くしてから口を開いた。 「湊屋」 「はい」 四郎は指先でこめかみを軽く押さえた。 「ただ一つ、私には判っていることがある。これは真実だ」 「…………」 四郎は湊屋をジッと見た。 「私がこのまま槇原四郎として生きていくということだ」 その言葉に湊屋は軽く頷く。 「長信様、何よりもご自分のお命を大切になさいませよ。何よりも、ご自分がまず生きることを優先なさいませ。それが、私どもがこの世に生まれた意味の中で、たった一つの確かな真実なのでございますから」 四郎はそれには何も答えず立ち上がり、軽く会釈をすると去っていった。 (私が天下を取る? そんなことは絶対にあり得ない) それは確かだ。 『遠くまで見渡してご覧なさいませ』 湊屋の言葉が四郎の頭の中で響き続けていた。
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