羽場家。 羽場外記は一人の町人と酒を酌み交わしていた。湊屋というのが町人の名前であった。 と、襖を隔てて、 「殿」 と忍びやかな声が響く。 「あの方はこの屋敷に向かっておられます。そして、槇原四郎という仮名をなのっておられます」 外記は声のほうに向かって頷いた。 「為栗から聞いたが、三人を一太刀とか。三人は誰だ?」 「はっきりとは申せませぬ。が、甲賀者であったは確かかと」 外記は無表情に杯を置いた。 「出馬、尾行は気づかれなんだか」 その問いに、出馬と呼ばれた声の主は暫くの間沈黙で応えた。 やがて、 「自信はありませぬ。まるで魔性のようなお方」 と言い、 「私どもには荷が重すぎると言えましょう」 とも答えた。 その時、外記がフッと庭のほうを見る。 「どなたかな」 との外記の問いに、庭の暗がりからは、 「命を取ることが目的ではないので気配を殺さなかった。また、家臣の方々の手を煩わせぬためにこのように忍び込んだ」 と声が響いてきた。 足音が近づいてくるのに、外記が障子を開ける。 部屋の灯りが庭に漏れ、その中に四郎が姿を現した。 「ごめん」 と四郎は断って座敷に入っていき、湊屋をチラッと見てから外記に差し向かうように座った。 「本日はお礼方々、顔を見に来たと思っていただこう」 「はて?」 外記は首を傾げる。 「先程、三人の方が手厚くもてなしてくれた」 「ほう、それで?」 「その礼だ」 「さて、判らぬが……。その三人とやらがわしの家臣であった、とでも言うのかの? わしには覚えがないが」 外記は四郎を見つめながらそう言った。 湊屋は口を挟むことなく、ただ面白そうに四郎を見ていた。 「ほう、そうか」 「何故そう思ったのかな」 四郎はその外記の問いには答えず、 「では、私を尾行していたのが外記殿の手の者か」 とまるで独り言のように言った。 それに外記が目を丸くする。 「さて、出馬の尾行に気づいておられたのか。出馬よ、そちの申した通りじゃな。もう一度修業をやり直すか」 「面目ござらぬ」 襖の向こうからは淡々とした声がしてきた。 四郎はスッと立ち上がる。 「外記殿、私は江戸に戻ってきたばかりだ。故にまだ何も知らぬ。兄上の様子はいかがだ?」 外記は四郎を見上げて微笑んだ。 「もう少し自信をお持ちになればよろしいのに、と思っております。今はまだ大御所様がおられますので心配はございませんが」 四郎は外記を少しの間見つめて、 「そうか」 と呟くと部屋を出ていった。 外記がその背に、 「どうぞ、玄関からお帰りください」 と呼び掛けると四郎はクルリと振り向き、二人に会釈して去っていった。
|
![]() | ![]() | ![]() |