湯谷寺の住職は石段に座って月を愛でていた。 「名月や、名月や……うーむ」 月の光は辺りを皓々と照らしている。 その月の下で、住職は一句詠もうと唸っていた。 「名月や、庭の楓葉、故人なり」 と、暗闇の中で声がしてきた。 住職は石段を上がってくる人影に目を凝らす。 「これはこれは、長信君ではないか。すると今の句も?」 「いや、和尚のような俳人に聞かせるようなものではないな。俳句は昔から苦手だ」 四郎は苦笑しながら住職の隣に座った。 「まあ、この坊主にもあなた様より秀でたものを残していただかないと。しかし、ご立派になられて……6年ぶりでございますかな?」 住職が目を細めて言った。 6年前、四郎は一月ほどここで過ごし、そして、江戸から消えたのだ。 時折冷たい風が吹いてくる。 古寺の大きな楓の木から、飛ばされた紅葉が二人の足元にも転がってきた。 「6年の間、何をしておられたのじゃ、長信君」 四郎が月を見上げ、そして住職に目を戻した。 「私は一人の老人を師と仰いだ。そして、彼は去る日、この無陰刀を造ったと言った」 「ほう、すると、その老人は本郷正之様」 住職の言葉に四郎が驚いた顔をする。 「和尚もその名を言うのか。それほどにこれは有名な物だったのか。いや、あの老人自体がそれほどの人物だったというのか?」 住職が呆れたような表情を浮かべたが、すぐにそれを消し、納得したような顔をする。この方ならさもありなん、と。 「本郷正之様が打たれた刀は二本だけだとお聞きしております。そして、一本は失敗作として折られたとか。そして、もう一本がその無陰刀、これは成功品として大御所様に献上されたとお聞きしましたな。そして、本郷正之様については、ご立派な方ということでございました。何かにつけても秀でておられた、と」 「和尚は会ったことがあるのか?」 住職は首を振った。 「いえ、残念ながらお会いしたことはございませんな。まあ、このような古寺の住職が会えるような方ではありませんが」 四郎がフッと目を落とした。 「師は、この刀は人を斬るための物だ、と言った」 その言葉がきっかけのように、住職はふと僧衣の前を合わす。 「まあ、刀という物は斬るための物ではあるが……。今、血が流れたのではないか?」 「…………」 「無縁仏はどこじゃな。葬ってやろう」 と住職は立ち上がり掛けた。それに四郎は暗い笑いを向け、 「それは無駄だ。すでに跡形もないだろう」 と言った。 住職は座り直した。 「公儀かな?」 「恐らく……。松平姓を捨てても私は災いになるのか。公儀はそんなに私が邪魔なのか。和尚、私には避けられないことなのだろうか」 暗い表情で呟くように言う四郎の頬に、風に吹かれた紅葉が一枚当たって飛び去った。 住職が重く首を振る。 「さて、そなたが他のご子息であれば避けられたであろうかな。いや、しかし、わしにはその天稟が災いになるとは思わぬがのう」 「しかし、それ故にこの無陰刀は血を吸うことになる……」 さらに四郎の面に暗い翳が宿った。 湯谷寺の離れには相月の姿があった。 相月とは住職の姪で両親が早くに亡くなったため住職が引き取って育てていたのである。 足音が近づき障子が開いて四郎と住職が入ってくると、相月は平伏した。 「相月殿、そのように堅苦しくしないでくれ」 四郎は苦笑しながら言った。相月が四郎を見上げ、 「6年ぶりでございます、長信様」 と言うのに四郎が軽く頷く。 「相月」 住職が相月に目配せをすると、相月は二人に頭を下げて出ていった。 「相月殿は何歳になったのかな」 「16になりました」 「あのお転婆が、随分とおとなしくなたものだな、和尚」 四郎の笑いに、 「いつまでも子供だと思っていたのが、あれだけ成長するのですからな。あとは相月の嫁入りが楽しみです」 と住職が嬉しげに答えた。
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