四郎は平八郎の長屋に戻っていった。 障子を開けた時、背筋がスッと寒くなるのを感じる。 (この男、数え切れないほどの人を斬っているのではないか?) 平八郎の脇に座っている男が、無言で四郎を見つめていた。 平八郎は暫く何も言わなかったが、やがて口を開く。 「四郎殿、障子を閉めんかな。もう晩秋じゃ。年寄りの身にはこたえるでな」 四郎は障子を閉めて、男の真向かいに座った。 「紹介しておこうかの。この男は、早瀬伝十郎という名の剣客。そして、槇原四郎という浪人。腕は、五分五分かな?」 平八郎はニコニコ笑いながら言った。 「残念なことに、俺には四分の勝ち目しかないようだな。ま、実際やってみれば違うかも知れぬが」 と伝十郎はクスッと笑った。 「伝十郎、お前にしては随分気弱なことを言うの?」 平八郎の言葉を聞き流して、伝十郎は四郎をジッと見つめていた。 (この男、もしかすると?) 伝十郎の胸の内に、一つの名が浮かび上がった。 (そうかもしれぬ) 伝十郎の口の端に冷笑が浮かんだ。 四郎は暫く伝十郎と見つめ合っていたが、耐えられなくなって目を逸らす。 (何か、私の心の中を覗き込まれているような気になる) 四郎はそう思って、伝十郎の視線が痛かった。 と、平八郎が四郎のほうに少しにじり寄った。 「ところで、四郎殿、これから何をするつもりじゃな」 「…………」 四郎は少し俯いたまま無言であった。伝十郎はまだ四郎を見つめ続けている。 「四郎殿、伝十郎と共に狗になってはくれまいか。そなたが加われば心強い」 「爺い、何をしでかす気だ、私は」 四郎は平八郎に目を移した。 「このことは、将軍家の御為でもあるのじゃよ」 平八郎が諭すような口振りで言う。 「何、兄上の? 兄上がどうされたのだ?」 伝十郎の瞳がキラッと光って、次の瞬間には元の無表情に戻った。 「兄上のためならば……」 四郎は頷きながら言った。 「なるほど」 と伝十郎がニヤッと笑う。 「そうか、やはり貴公が6年前の家出した長信君か。すると、それが無陰刀。本郷正之の造った刀の中で、唯一の成功品と言われている」 伝十郎が少しの間、四郎の刀を見つめていた。 「貴公はこの刀について、何を知っているのだ」 四郎は思わず伝十郎のほうを向いた。伝十郎は四郎に目を向けたが、彼の問いには答えなかった。 「噂でしか聞いたことはなかったが、なるほど、貴公ほどの器量ならば、大御所の思いも判るな」 そう事実、大御所は、将軍家よりも四郎のほうに目を掛けていたのである。 伝十郎にそう言われて、四郎は黙り込む。それは真実であり、それだからこそ、自分は兄のために後継者争いから逃げ出したのだ。 「爺さん、俺は狗になる気はないぞ。裏切るかも知れぬと判っているのなら考えてもいいが。それは判っているだろうな」 伝十郎が薄笑いをしながら言った。 「で、誰だ」 「さて?」 平八郎は相変わらず人の善い笑顔を見せていた。 「ふん」 伝十郎は平八郎を見据える。 「ま、爺さんのことだ、充分に俺のことを判った上での言葉だということだな。越前守の思い通りに行くとは限らないぜ」 それだけ言うと伝十郎はスッと立ち上がり出ていった。 すっかり庭は暗くなっている。 四郎は伝十郎の出ていったあとをジッと見つめていたが、やがて口を開いた。 「爺い、あの男は何者だ? 何か、凄く冷たい面もちをしている。それに、何故この屋敷に出入りしているんだ? 爺いの子飼いか?」 「ほう……伝十郎にかなり興味を持たれたようじゃな。まあ、判らぬでもないが。しかし、いやいや、この爺いの子飼いなど、とんでもない。あの男の気紛れを承知の上でも、手綱を取るのは難しゅうござるよ」 四郎の矢継ぎ早の質問に平八郎は面白げに笑った。 「さて、何者と言って、どう説明すればよろしいかの。伝十郎もそなたも、元を辿れば同じ男の子孫じゃな。つまりはそなたとまんざらでもない関係じゃよ。伝十郎も本名は松平姓じゃ」 四郎は黙って立ち上がった。 「当分のねぐらにしても良いぞ」 「私は、私に関わりのある人の死を見たくはない」 と、抜く手も見せずに小柄を庭に放った。 呻き声が聞こえた時には、四郎はすでに庭に立っている。 「何か、用か」 四郎の言葉に応えるかの如く、木々の間から三人、スウッと影のように出てきた。 「どなたか知らぬが、この庭を血で汚すことは許さない。場所を変えようか」 そう言って、四郎は伝十郎を振り返って明るく笑った。 「爺い、またな」 そのまま、四郎は三人の男に挟まれた格好で出ていった。 「無陰刀が、血を吸う、か。さて、どちらに回る?」 あとに残った平八郎が呟いた。 いつも人の善い笑顔を浮かべているその顔に、珍しく翳を落としていた。
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