「四郎殿」 平八郎の声に、ハッと四郎は我に返った。 「吉信に会われるのであろう。こちらじゃ」 築山の向こう側にかなり凝った造りの離れがあった。 「では、わしは長屋に戻っておるからの」 「爺い、忝ない」 平八郎はニコニコ笑いながら立ち去った。 四郎はすぐに戸を開けなかった。手を掛けて、ふと目を落とす。 その先にあったのは一輪、淋しげに揺れる野菊だったのだが、果たして四郎がそれに気づいて視線を落としたのかどうかは定かではない。 そして、本当に野菊が目に入っていたのかも。 四郎の目は閉じられていた。 と、四郎の、離れの戸に掛けていた手に無意識の内に力が入ったらしい。 カタン、と少し開いた。 「誰だ、爺いか?」 奥から声がしてくる。 怯えているような風ではない。外の風が入ってくるのを快く思っているような口振りであった。 四郎は離れに入り、奥の部屋の襖を開けた。 部屋の中には山のように書物が整然と積まれており、主は柱にもたれかかり書物を手に持っていた。 この青白い顔の青年が市田家二男の吉信、22歳であった。 吉信は入ってきた四郎をジッと見上げる。 「これは、夢だな」 吉信はそう言って手をひらひらとさせた。 「お前の夢を見るようでは、わしも終わりだな」 「吉信、6年ぶりだ」 吉信の手から書物が落ちる。 「本当に……長信なのか?」 吉信の目から涙が溢れた。四郎が少しひきつった笑いを浮かべる。 「長信、今まで……」 「すまなかった」 四郎はポツリと言った。 「長信、何故わしにも何も言わずに出ていったんだ。わしは、6年も独りぼっちだったんだぞ」 吉信の側に座った四郎は、その手を取った。 「すまない。だが、私は兄上が好きだった。兄上のために……」 四郎はフッと口を噤んだ。だが、すぐに言葉を継ぐ。 「私はもう、松平姓を捨てたんだ。今は一介の浪人、槇原四郎だ。ところで、吉信、本郷の姫を貰うそうだが」 吉信はジロッと四郎を見た。その顔に僅かに自嘲が浮かぶ。 「父上が決めたことだ。どんな姫か知らぬが、わしとなどと気の毒なことだ」 四郎は立ち上がって障子を開けた。 西の空にはまだ鮮やかな夕焼けが燃えていたが、庭の紅葉は、ここでもそれより鮮やかに映えていた。 四郎は濡れ縁に座り、ふと気づいたように振り返ると、 「寒いか?」 と聞いた。 「いや」 と吉信は首を振る。 四郎は障子にもたれかかって、吉信に横顔を見せた。 「随分と美しい姫だった。本郷殿の姫らしく、聡明そうな姫だ」 四郎は薄く笑った。 「お前の又従妹だからだろ」 「ああ、そういえばそうなのかな。お前について調べてくれと言われたよ。何故、私に頼んだのかな。お前、体のほうはどうだ?」 「うむ……」 吉信は表情を暗くした。 「吉信、私が黙って出ていったせいだな」 四郎も表情を暗くする。途端、吉信は、 「それは違うぞ」 と叫んだ。 「長信が出ていったのは、今の将軍家のためだろう。お前がどんなに兄上殿のことを愛しているのか知っている。そのために出ていったのは判っているんだ。だが、お前の兄上殿もなかなかの人物だが、長信のそれとは段違いだ。そう、みんなが感じる通りにな」 吉信の言葉に四郎は胸を痛める。 「私は兄上を立派な人物だと信じている。将軍としての器量が兄上には充分にあると思っている。私は、兄上を渦の中に巻き込みたくないし、私も巻き込まれたくない」 四郎は立ち上がった。 「長信、お前は知らなかっただろうが、露姫はお前の正室になるべく育てられた姫だったんだ。もしかすると、姫はお前を恨んでいるやも知れぬな」 吉信は四郎から目を逸らして言った。 四郎は吉信の肩に手を置く。 「吉信、またな」 「長信、また来てくれるな。ここには父上も兄上も訪れはしない。爺いだけが時折話し相手に来てくれるだけだ」 四郎は頷いて離れを出ていった。 その四郎の背に、吉信の小さな呟きが響く。 「日陰者で病気持ちのわしが命永らえたところで、我が父上や兄上が喜ぶはずはない。わしがまだ死んでいないのは、わしと露姫との婚礼を行わなければならない、父上のためだ。ただそれだけのためなのさ。それが、わしに出来る、たった一つの親孝行だからな」 四郎はその呟きを聞きながら、己が吉信に対して何も出来ないことを悔やんだ。 そのまま四郎は離れから立ち去ったので、その後の吉信の言葉は耳に入らなかった。 吉信も、四郎に伝える気はなかったのだが。 「わしは、わしさ。そう……だが、長信、お前は何故わざわざ戻ってきたんだ。この江戸へ、この渦中へ……」 吉信は畳の上に落ちた書物を拾い上げると膝の上に拡げた。 「わしには、お前の考えが判らない」 吉信は目を閉じていた。 彼が思い浮かべたのは、一人の女性。 己の許嫁であるというだけの女性、露姫の面影を。 池の中で、音を立てて鯉が跳ねた。
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