四郎は城を出奔して以来、山奥に籠もっていた。そして一人の老人を師と仰いでいたのだ。その老人の髪は初雪のような銀色であった。 老人が姿を消したのは、秋。 そして、その日、老人は無陰刀を指差し、 「その無陰刀は人を斬るためのものじゃ」 と言った。 四郎は驚いて、老人と刀を代わる代わるに見る。 「先生は、この刀の名を何故知っているのですか!」 「それは、わしが造ったものだからじゃ」 老人は憮然とした顔で言い、四郎はそれに目を見張った。 「え、先生がお造りになられたのですか?」 「そう、わしが造ったものじゃ。斬るために造った刀じゃ」 「斬るため……それは一体……」 「そなたは、何のために剣術を習う? 何故、刀を持つ?」 色づいた木の葉が風に吹かれている。それを目に映しながら、四郎は何も答えられなかった。 そんなことを考えたことなどなかった。 刀を持っている意味など、自分が武士だから、もしかしたら、ただそれだけの意味しかないのかもしれない。 「そなたには、将軍家の面影が見える。わしは……山を移ろう。その刀を持っているのが、そなたとは、な。さて、わしの思いは……」 老人は空を仰いだ。 「所詮、人間というものは愚かなものじゃよ」 そう言って老人は立ち上がった。 「そして、自分勝手なものじゃ。いつかそなたにも判る日が来るであろう。……山というものは、いつまでも登りではない。登り詰めても留まることは出来ない。いつかは下りなければならないものじゃ。そして、そなたも山を登ろうとするかな。登りたければ登ってみればよい。そこがどれだけ不安定なものか、よく判るであろう。人間は誰でも自分の幸せしか願いはせぬ。他人の幸せを願うなど、それは偽善でしかない」 老人はその深い皺をますます深くして言った。そして、ただ一つの荷物である太い杖を持つ。 「一体、先生は何者なのです? 私が何者であるかを知っていたのですか?」 老人は笑った。 「わしは、すべてを忘れようとしたのじゃ。無陰刀を造りあげた時に。それに思いを込めて。あとは風の吹くままに……。それなのに、何故そなたに会ったのかの、わしは。のう、長信」 老人が一瞬四郎を見つめた。 その表情は、慈しむようなものであり、しかし、恨みがましいものでもあった。 四郎は立ち去る老人の背に呼び掛けようとして、何故かそれをしなかった。 老人が何を斬るためにこの刀を造ったのか、それが誰なのか、四郎は聞かないほうがいいと思った。 その予感とも言うべき思いを、四郎はやがて思い出すことになる。 そして、それはこの時からそう遠くない未来であったのだ。 二人の間で、ゆっくりと紅葉が舞った。
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