「もしもし」 と後ろからしゃがれた声が呼び掛けてくる。四郎は、先程追い抜いた老人であろう、と思い、 「何か?」 と振り返った。そして、老人の顔を見て、面にこそ出さなかったがギクリとする。 「やはり長信殿か。久方ぶりじゃな。お父上のお若い頃に段々と似てくるの」 四郎は老人を見つめ、 「私は」 と言いかけた。 「爺いを覚えておらぬか? 佐久間平八郎じゃよ」 佐久間平八郎、市田越前守の側用人である。越前守が最も信頼している人物であり、或いは、越前守が今ある地位は彼が築いたと言っても過言ではないのだ。 越前守の二男吉信は、四郎の幼馴染みであった。だから、市田家を訪問したことは一度や二度のことではない。 この老人は、四郎にとって一時の師でもあったのだ。 四郎の表情がフッと暗くなる。平八郎は人の善い顔をニコニコとさせていた。好々爺、と呼ばれるにふさわしいその姿から、その頭脳にどれだけの知識が詰まっているのか、想像するのは難い。 「私は……槇原四郎という浪人だ」 四郎は苦しげに呟いた。平八郎はさらに笑った。 「まあ、それでは、そうしておきましょうかの。四郎殿、吉信に会いに来るつもりであろう?」 この老人は、例え主人の子供であろうと呼び捨てにした。例外は四郎に対してだけである。 「別にそのことを止めはいたさぬが……。吉信の病はますます酷くなっておる。だが、吉信自身は良い若者じゃ」 平八郎は歩き出しながらそう言った。 「吉信が座敷牢に入れられている、というのは本当なのか?」 四郎の言葉に平八郎は目を丸くして四郎を見上げた。 「それをどなたからお聞きになられた? 全くの噂でございますよ。吉信は離れにおるだけじゃ」 「そうか」 ホッと四郎は吐息を落とした。 「それで、吉信は本郷の姫を娶るそうだが、政略結婚とはいえ……」 「ほう、それを知っておるのか。姫に会われたのかな? 名を捨てても、人は忘れぬぞ、四郎殿」 平八郎のその言葉に、四郎は口を噤んだままだった。
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