四郎は茶室の中に入った。 一輪挿しに生けられた野菊が、薄紫の花びらを少し揺らす。その淡い色合いが茶室の豪奢さの中では却って目立っていた。 露姫は茶を点てながら、横目でチラッと四郎を見る。萌葱の袷は彼女の美しさに似合っていると、四郎は露姫の姿をジッと見つめながら思った。 茶筅を動かす音と、幽かな小川のせせらぎだけが、茶室の中に響く。 「本郷下野守殿の姫君、露姫殿とおっしゃる・・・あなたは茶人でございますね」 四郎はやがて少し笑いながら言った。 露姫は茶筅を置くと、四郎に茶碗を差し出し、 「あなた様は、やはり長信君でございましょう」 と冷ややかな口調で言った。 四郎は茶碗を手に取ると、作法には構わず一口、口に含んだ。何故かそれが自然なように露姫には思える。 「何を言っておられる? 私はそのような名ではありません」 そう言って、四郎は残りを一気に飲み干した。 「私はその刀を存じております。無陰刀、そう呼ばれている刀でございましょう。そして、その刀を持てる方はただお一人だけ」 露姫はそう言って薄く笑った。 四郎は鑑賞していた茶碗を畳の上に置いた。 「今日初めての茶碗ですね。この茶碗は使い込んで初めて味が出るようになる。この茶室も、遊ばせておくには立派すぎ、日常の物とするにも立派すぎる。ここで真実の物は、あの野菊だけのようですね」 四郎のその言葉を露姫は聞き流した。 「松平長信様、将軍家の弟君でございましょう」 露姫はなおもその口元に笑いを浮かべたまま言った。 「私は、槇原四郎という浪人者。私のような下賤の者に、大名家の姫君が何の用でございます? 酔狂にしてもご身分らしからぬこと」 四郎は露姫の目を真っ直ぐに見ながら言った。 つと、露姫が四郎の視線から目を外し、 「私は市田吉信殿の許嫁です」 と言った。 四郎の表情が僅かに変わる。 「長信様、あなた様の腕を買わせていただきます」 「は?」 四郎がきょとんとした。 「吉信殿についてお調べ願います。お礼にはあなた様お望みのものを差し上げましょう」 露姫はそう言って頭を下げた。 四郎がフッと笑う。 「おかしなことを言われますね。私のような者に頭を下げるより、あなた、或いはあなたのお父上殿であれば、いくらでも命令出来る者がいるはずですが? それも何の見返りもいらなくて」 そう言って立ち上がり掛けた四郎に、露姫は下を向いたまま膝を進めた。 「お待ちくださいませ。私は吉信殿が最近、座敷牢に入れられたという噂を聞いております」 四郎は構わずに立ち上がったが、露姫は四郎を見上げて真剣な表情を浮かべていた。その表情に四郎の心は揺れ動く。何か見覚えがあるような……自分は露姫に会ったことがあるのではないか……。 「長信様は、吉信殿の幼馴染みと聞いております」 「では、その長信に頼まれるがいいでしょう、露姫殿。私は槇原四郎という名の一介の浪人者です」 四郎は無表情に露姫を見下ろしていた。 「ですから、槇原四郎様と名を変えられた、長信様にお頼みしているのですわ。長信様と吉信殿は、竹馬の友で大変仲がお宜しかったと聞いております」 四郎はクスッと一つ笑いを零すと、 「では、長信という男に伝えておきましょう。恐らく承知すると思いますが。ですが、露姫殿、もし、長信が礼にはそなたが欲しいと言ったならば、どう答えるおつもりでしょうか?」 と言った。 露姫はニコリともせずに、 「承知いたしましょう」 と言った。 四郎は露姫に背を向けた。 「一言……言わせていただきましょうか。あなたのような方が吉信の許嫁とはついていないですね。吉信にとっても、そなたにとっても。その理由は聡いそなたにはお判りでしょう?」 四郎はそう言い残して茶室から出ていった。 露姫はその後ろ姿に目をやることもなく、茶杓を手に取り薄く笑う。 「たわいない」 露姫の口から零れ落ちたその言葉は、四郎には届かなかった。 遠くで鈴の音のような音が響いていた。
|
![]() | ![]() | ![]() |