「どこかの大名家の下屋敷か……」 と四郎は呟いた。その時、衣擦れと足音が近づいてきて、部屋の前で止まった。スッと障子が両側に開かれて、四郎はそちらに視線を向けた。一人の女が立っていた。両側には障子を開いた腰元と思われる女が二人座っている。 四郎は女に目を合わせ、彼女が身分の高い女性であることを感じ取った。生まれながらにして人の上に立つことの出来る、ただそれだけの世界に存在している人を見下したような視線を真に受ける。 女は、この屋敷の主人の娘、露であった。露姫は四郎を冷たい眼差しでしばらく見つめていたが、傍らに控える腰元に目を移した。 「妙、鈴、お客人をお湯殿にご案内しなさい。私は茶室にいます」 妙と鈴は四郎を汚らわしそうに見ていた目を大きく開いた。 「姫様!」 露姫は冷ややかに腰元たちを見下ろしていたが、そのまま何も言わないまま去っていった。妙と鈴は顔を見合わせてそっと息を落として、四郎に目を向けた。 「お客様、お湯殿にご案内いたします」 そう言って四郎が立ち上がるのを待って、二人は立ち上がり、先に立って歩き出した。 「妙さん…とやら、あなたのご主人はどなたの姫君なんだ?」 湯殿ですっかり垢を落とした四郎は、妙に着替えを手伝ってもらいながら問うた。妙はキッと顔を引き締めると、 「姫様は、老中本郷忠長様のご息女の露姫様です」 と言った。 「ほう、下野守殿の姫君か」 と呟いて、四郎は手渡された山藍摺の小袖をまとった。その姿に妙が不思議そうな顔で四郎を見上げる。 「お客様は……」 四郎は、うん? と妙のほうを見た。 髪を結い直し、髭もすっかりあたった四郎の年頃は、21、2に見え、そして、美男と言うほどではないが、気品があり端正な顔立ちであった。ただの無頼の浪人、という感じは受けない。 妙は首を振った。そして、口を噤んで歩き出した。 (いったい、どなたなのかしら……) 今日は珍しく朝から外へ出たい、と言った露姫であった。そして、駕籠の戸を少し開けたまま、ゆっくりと歩かせていた。その横には妙と美鈴がついて歩き、駕籠の前に腰元頭の野島が歩いていた。 (戸を開けていらっしゃったのは、紅葉を見ていらっしゃるものと思っていたけど……もしかしたら、この方を探していらっしゃったのかしら……。でも、何故?) そぞろに歩かせて、露姫が野島を呼び、何か伝えた。野島は通り過ぎた茶店に向かったが、露姫の駕籠はそのまま先に進んだので、妙は野島が何のために茶店に向かったのかを知らなかった。そのまま露姫は屋敷へと戻り、そして、今に至っているのである。 池に架かる石橋を渡り、茶室へと妙は歩いていた。垣根の戸を開けて妙だけが茶室に近づく。 茶室の脇の小川がさらさらと流れていた。 「姫様、お客様をお連れいたしました」 妙は躙り口を少し開けてそう言った。 「お前は下がっていなさい」 中から露姫の声が響く。 「姫様!」 驚いて妙が顔色を変えて叫んだが、 「お下がり!」 と露姫の鋭い声が響いてきて、仕方なく妙は振り向いて四郎を促し、自身は垣根の側に跪いた。
|
![]() | ![]() | ![]() |