ガチャリと戸が開かれる。冷たい風がバーの中に吹き込んだ。バーの中にはカウンターにマスター、他には誰もいない。
「看板、消えていたけど、もう閉めるのか」
「ええ」
 と振り向いたマスターはにっこりと笑った。
「ああ、あなたでしたか。いいですよ、どうぞ」
 男は黒いコートに雪を積もらせてそこに立っていた。髪の毛を振って雪を払い落とす。そしてコートのままカウンターに座った。
 グラスにカランと氷を入れると、マスターは男のボトルから注いですっとカウンターを滑らせた。男の右手にすっとグラスは止まる。
 男は黙って一気にグラスをあおった。そして横に置かれたボトルから、グラスになみなみと注ぐ。
 マスターはグラスを一つ一つ丁寧に磨いていた。何も喋らない。
 男と喋るのは、いつもほんの僅かなこと。お互いに相手のことなど興味ないのだ。
 ただ、今日の男の姿が、いつもと違って感じられることには気づいた。だが、何も言わない。
「クリスマス・カクタスの、花言葉って知ってるか」
 それで何杯目のロックを飲み干したのだろうか。男がグラスを鳴らして言った。プワーンと不思議なグラスハープの音が小さく鳴る。
 マスターが最後のグラスを磨き終えて、男のほうを向いた。
「また、あなたらしくない台詞ですね」
 マスターは自分のグラスをカウンターの上に置くと、棚からボトルを取り、少しだけ注いだ。
「俺らしくない?」
 男はまたグラスをあおる。そしていきなり笑いだす。
「ああ、そうだな。やっぱり、今日は俺じゃない」
 マスターはちびり、とやった。
「ずいぶん、クリスマス・カクタスに引っ掛かりますね。何にも執着しないあなたが、どうしたんです?」
 男は皮肉気に口の端を歪めさせる。
「ああ、そうだな。そうだな」
 男は口調ははっきりしているが、自分が酔いたいと思っていることに気づいた。今までどんなに深酒しても、酔わなかった。酔ってしまうことは、生死に関わる問題なのだ。なのに関わらず、今、男は酔い潰れたかった。
 せめて、酔っているふりでもしたかった。
「女が、クリスマス・カクタスを部屋に置いた」
 男はグラスを弾きながら言った。
 マスターは時折、ちびりちびり、とやりながら黙って聞いていた。
「女も部屋を出ていかなかった」
 男はまたグラスを鳴らす。
「俺は、最初から気づいていた」
 マスターは表情を変えることなく、男の言葉を聞いていた。
「女は、俺の命を狙っていた。ああ、ただ、それだけのことで、あの女は俺の部屋に来て、クリスマス・カクタスを置いていったんだ」
 男はグラスにずっと目を向けたままだった。
「今日はクリスマスだな。クリスマスにクリスマス・カクタスが咲く、なんて、出来過ぎさ。おまけに雪が降る」
 マスターが自分のグラスに酒を足した。
「クリスマスに雪が降るのは、当たり前ですよ。クリスマス・カクタスが咲くのも、当たり前ですよ」
 男はマスターの言葉に、驚いた顔をした。そして不意に笑う。
「そうか、そうだな。クリスマスだからな」
 男は一時笑って、また目を落とした。
「女は死んだ。花も死んだ。床にばらまかれた土と鉢の破片、踏みにじられた花、倒れた女、うっすらと赤く染まる。それに雪が落ちては消える」
 男の右手がグラスを手に取って、そして離した。グラスは床に落ちて少し欠ける。男が立ち上がってそれを踏んだ。
 マスターが自分のグラスの氷をカランと鳴らした。
「愛していたんですか、彼女を」
 男の足元でグラスはさらに粉々になった。
「酔っちまったな、今日は」
 男が背を向けて言った。
「あなたが望むなら、本当に酔い潰れるまで付き合いましょう」
 マスターの言葉に、男がポケットに手を入れて、何枚かのお札を取り出すと、カウンターの上に投げた。
「伊達に、こんなところでマスターをしてないな、あんた」
 男が振り返ってマスターを見つめた。マスターは何も言わない。
「愛してなんか、いない」
 男は戸を開けた。通りにうっすらと雪が積もっている。
「愛してなんか、いない」
 男は同じ言葉を繰り返して、マスターを再び見た。大きく開け放された戸から、黒い影が出ていく。
「あの花の赤が、離れないだけだ」



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