男は右腕を押さえた。すぐ側に、電気が点いたり消えたりしているバーの看板が見えた。男はドアをガチャリと開けた。
 客の姿はない。カウンターの向こう側にグラスを磨いている人影。
「もう看板か?」
 男はドアを開けたままで言った。
「どうぞ」
 マスターはそう言ってグラスを置いた。男はカウンターの椅子に座る。
「初めてでございますね」
 マスターが男をチラリと見て言った。男は黒いコートで右腕を隠したまま、棚のボトルを眺めた。
「マスター、ボトル入れさせてもらうぜ」
 男が目で指したボトルの蓋をキュッと開けると、
「ありがとうございます。でも、その前にその右腕を治療したほうがいいと思いますが」
 とマスターは言った。男のジロリとした視線がマスターを見る。そして、ニッと笑うと、
「消毒なら、これでいい」
 男は自分の前に置かれたグラスの中身をパシャッと右腕にかけた。それほど酷い傷ではない。だが、ほんの少しの油断で傷つけられたことは、男には屈辱であった。まあ、傷つけた相手は、すでにこの世にはいなかったのだが。
 男は空いたグラスをマスターの前に滑らせる。グラスはピタリとマスターの前で止まった。
「マスター、ありがとよ」
 男は立ち上がってカウンターの上にお札を置くと、風のように出ていった。
 マスターが目の前のグラスを見て、そしてその隣のボトルを見た。マスターはマジックを取り出すと、ボトルを手にする。少し考えて書いたのは、
『男』



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