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コートを脱いだ時だった。頬を何かが掠めた。熱い。擦過傷が薄く赤い線を頬に残した。何が起こったか考える前に、男の体が動く。ズボンの裾を焼く。その執拗な、そして僅かに逸らす腕前に、男はやっとのことでビルの陰に隠れた。
フッと僅かに息を落として、額に浮かんだ汗をそのままに、試しにコートを少し覗かせた。何の反応もなかった。男は少しだけ顔を覗かせた。途端に目の前を過ぎる銃弾。前髪が弾けた。
殺し屋としての地位は着実に固めてきた。つまりは、男を殺した、ということが、次のトップを目指す者たちのステータスになると言うことだ。仕事をしている時以上に、普段も過ごさなければならない。この世界に足を踏み入れてしまった、それは男にとって当たり前に受け入れることであった。
「懐には入らせない……か」
男が細身のナイフしか使わないことは、この世界では周知のことである。故に、男は相手の懐に入らないかぎり、仕事が出来ないのだ。それでも、この世界でそれなりの地位を築いてきた、ということは、それだけ、男の腕が優れていた、ということだろう。
「この俺が、成す術もなく、こんなところに隠れている、なんてな」
男はクスクスと笑った。だが、強張った笑いだった。冗談ではないのだ。男は動くことさえ出来なかった。とはいえ、このままでいるわけにはいかない。
相手の居場所はすでに掴んでいた。あれだけ夜の闇に紛れて撃っていても、銃弾の火花は見える。男はコートを思いっきり投げ上げて、そして走り出した。
当てようとすれば、当たるはずなのに、執拗とも言えるほど、掠める銃弾。相手は男が自分の元にやってくるのを待っているようであった。
左の袖の中に仕込んであるナイフを確かめるように、右手でそっと触れた。息が乱れない程度に走る。
ビルの屋上のドアは開いたままだった。男が屋上に足を踏み入れた時、月が雲に隠れた。暗い闇が拡がる。だが、男には相手の居場所が判った。
右手のフェンスに背をもたれさせて、相手は立っていた。月がゆっくりと雲の間から顔を覗かせようとしていた。ゆっくりと淡い光が屋上をあらわにする。相手の足元に何発かの薬莢、そしてライフル。相手の顔が男にもはっきりと見えた。男は相手を凝視したまま動けなかった。相手はニヤリと笑った。男の背筋を冷たいものが下りる。今までどんなに相手が強くとも、恐怖を感じたことはない。なのに、今のこの感覚は何だ。
男の手には何もない。相手の手にも何もない。男はゆっくりと相手に近づく。相手もゆっくりと男に近づく。
冷たい風が吹いて、頬の擦過傷がしみた。
「俺はあんただ」
相手が言った。男は無言のまま相手に近づく。男の左手にいつの間にか握られたナイフ。そして相手の右手にいつの間にか握られたナイフ。
「俺はあんた自身だ」
男の目の前に、男にそっくりの相手がいる。動く放物線も、狙う場所も、鏡に映したように同じ。
「あんた自身が願っている、あんたの姿さ」
緩やかにカーブを描く男の左腕と、相手の右腕が、その手に握られているナイフが、お互いをすり抜けて、自分の首に突き立つ。
「俺が願っているって?」
男が首に手を当てて笑った。ぬるっとした感触が手に残る。相手が自分にそっくりの顔を歪めた。
「認めればいい。ただ、それだけのこと」
「何を?」
相手がニヤリと笑った。
「判っているはず……」
男は左手のナイフを思いっきり振り上げた。相手に向かって振り下ろす。相手は笑っている。笑っている。笑っている顔にピシピシとひびが入った。いくつもの割れた破片に、相手の笑った顔が転がる。
男の手にぬるっとした感触が今もまだしていた。
いきなり、腕を押さえられて、男は動きを止めた。
「ねえ、どうしたの」
女が男の腕を押さえたまま不思議そうに見上げていた。男は粉々に砕けた鏡を見た。歪んだ自分の顔が、壁に残っている僅かな破片に映っていた。
「怪我をしてるわ」
女は男の腕を引っ張ろうとするが、男は女の手を振り払った。
「あっちに行け」
男に言われて、女は男をチラリと見てそして去っていった。
洗面所の床に、流しに、散らばる破片たち。男は左手から流れ出る血に気づかないように、映る自分の姿をジッと見つめていた。
そこに映るのは自分自身。そして今まで意識を共有していたあの男自身。
そして、首に突き立てられたはずのナイフの影はない。首から流れていたはずの血もどこにもない。左手から流れる血だけが現実のものだ。いや、屋上の上で相手の顔を見た時に、スッと背筋が寒くなった感触も現実のものだ。
「認める……?」
男は呟いて、くるりと背を向けた。散らばった破片はそのままにして。
女は壁際に立ってクリスマス・カクタスを見つめていた。その目がギョッとしたように見開かれた時、女の背は壁に押しつけられ、女の首にはナイフが添えられていた。
「な、何?」
女の震えた声が微かに口から発せられる。男の左手に力が入り、ナイフは壁にめり込んだ、女の首筋を掠めるようにして。女の背が震える。
自分の目の前には、殺し屋の男、そして自分は……。
男は女の髪を掻き上げた。そしてナイフから女を離すように自分に引き寄せた。
「クリスマス・カクタスの花が……まもなく咲くんだな」
女の後ろの壁に鈍い光を放つナイフが突き立ったまま、そしてクリスマス・カクタスのつぼみが揺れるまま、そして男は女をジッと見つめたまま、女は……。
「クリスマスには必ず咲くわ。咲いたら……」
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