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「今日は私のおごりです」
マスターがカウンターにグラスを走らせた。男が右手でパシッと止める。カランと氷が鳴った。男は琥珀色の液体を見つめて、そしてマスターにグラスを上げると一口飲んだ。
「マスター、あんた、昔何をやってたんだ」
男はそう言ってまたグラスから一口飲む。
「まあ、人に褒められたものじゃありませんが、あなたよりはましな生き方をしてきたつもりですよ」
マスターはそう言って自分のグラスを飲み干した。
「違いねえ。俺より下を行く奴は滅多にいねえよ」
カラン、と氷が鳴った。
「マスター、昔を懐かしむことってあるかい」
男が言った。マスターは男を見て笑う。
「私ぐらいの年になれば、それが当たり前ですよ」
男がフン、と笑う。
「年…ね。俺にもそんな時が来るのかな」
マスターが椅子に座る。
「どうか、しましたか」
男がマスターをチラリと見る。
「今夜のあなたは……」
男はグラスを掲げた。
「それはマスターがおごりなんてくれた、酒のせいじゃあねえのか」
マスターがボトルに目をやる。
「マスター、あんた、今と昔、どっちが好きだい?」
マスターの目にHERPERのラベル。
マスターが暫く黙ったままで、そしてやがて口を開いた。
「今を楽しむことも、昔を懐かしむことも、どちらも好きですよ。そして、昔の私を恨んで、今の私を嘆くことも、ね。私は、自分が正当化出来ればいいんですよ」
マスターがボトルを指で弾く。
男が面白そうに笑った。
「マスター、あんた、楽しい奴だな」
マスターが真顔で男を見た。
「あなたはどうなんです」
男はグラスを振って氷を鳴らした。
「過去も未来もどうでもいい」
男はひとかけらの氷を口に入れると、ガリッと噛んだ。
「酒が旨いこの瞬間だけが好きだ」
マスターが自分のグラスからちびり、と飲む。
「現在だけ……ですか」
男が口の端を歪める。
「現在なんてものは、存在しねえよ。そう思う時には、すでに過去だ」
マスターがまたちびりと飲んだ。そして、微笑む。
「不思議な人ですね、あなたは。時に、研ぎ澄まされた刃物のようになるのに、今のように、哲学者のようにもなる」
男がクククッと笑った。
「そして、本当の俺は、どこにもいない」
そう言って、マスターを指さして、
「本当のあんたも、どこにもいない」
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