− 第 2 幕 −



 ガチャッとドアを開けると、途端にムッとする煙と酒の匂いが身体中にまとわりついた。ジョルジュは小脇に包みを挟んだまま、ぐるりと店内を見渡した。場末の酒場に来るということ自体気に入らないが、探していた人物がここにいるから仕方がない。
 入りは三分の二ぐらいだが、ジョルジュの探す男の姿はまだなかった。ジョルジュはカウンターの隅の椅子に座った。バーテンが胡散臭そうにジョルジュをチラリと見た。身なりのいい若い男が来るような店でないのだ。それでも、ジョルジュが目配せすると、愛想笑いをしてバーテンが近づいた。
「あれを」
 ジョルジュが並んでいる酒の一つを指さしながらお札を差し出した。バーテンはその金がチップを含めているかどうかを悩んだ。一杯の酒の値段にしては多過ぎる。
「ジャン・ロベールってピアノ弾きはここの専属かい?」
 ジョルジュがお札に手を置いたまま、バーテンを見上げた。
「専属? ハハ、とんでもない。奴を専属にするほど、うちの店は落ちぶれちゃいませんぜ、兄さん。奴がお目当てでうちに?」
 バーテンがジロジロとジョルジュを見た。ジョルジュがお札から手を放すと、あっと言う間にそれはバーテンの懐に消えた。ジョルジュはそのまま黙ってしまったので、バーテンはジョルジュの前にグラスを置くと、新しい客の前へと去っていった。
 一日の疲れを癒すように、労働者たちがやってくる場末の酒場だった。白い煙がそれほど狭くない店内に、渦を巻いて存在を固辞している。ジョルジュはグラスを手にすると、グイッとあおった。そして眉をしかめる。こんなところで旨い酒を飲もうと思うのが間違いなのだ。
(来ることなんて、なかった)
 ジョルジュは安物の酒に飲まれている男たちと、その膝の上にしだれなく寄り添う厚化粧の女たちを冷たく見つめていた。何人かの女たちがジョルジュの側に寄っては無視されて、口汚く罵っては、自分を相手してくれる男たちの元へと帰っていった。
 ジョルジュは黒い髪の毛を掻き上げた。緩やかにくせがある髪の毛だった。グラスを持ち上げて、それを眺める。薄いアンバーの瞳、それに琥珀色の液体を映す。
 安っぽい酒に、安っぽい男女たちの交わり、その喧騒の中でジョルジュはグラスを見つめ続けていた。ふと小脇に抱えたままの包みをカウンターに置く。隅の席なので、それは誰の目にもつかなかった。
 バーテンは時折、ジョルジュのほうをチラリと見るが、グラスの中身がまだあるのを見ると、他の客に目を戻した。ジョルジュはそれを感じながら、グラスを見つめ続ける。
 喧騒の中でギイッと扉が開いた音が響いた気がして、ジョルジュはそちらを向いた。一人の男が、もうかなり酒に酔った様子で入ってきたところであった。スッと横に気配を感じて、ジョルジュは顔をそちらに向けた。
「兄さん、お待ちかねの奴がやってきたようだよ」
 カウンターの向こうでバーテンがそう言って片目を瞑ってみせた。それで話は終わりだ、というようにすっとまた他の客の相手をしに戻る。それが先程の多過ぎるチップの残りだ、といわんばかりであった。
 ジョルジュはグラスの中身を飲み干した。途端にバーテンがスッと前に立つ。ジョルジュは再びお札を取り出して、グラスを上に置いた。バーテンがジョルジュを見つめる。
「奴はいつもあんな調子なのか」
 バーテンはジョルジュとお札を眺め見て肩を竦めた。
「十年はあんな調子さ」
 ジョルジュは横に酒臭い気配を感じて眉をひそめてそちらを向いた。薄汚れた作業服の赤茶けた顔の男が、ジョルジュに向かってニヤーとした笑いを見せた。
「ミッシェルが死んでから、ジャンの奴は酒びたりさ」
 そう言って男は持っていた酒瓶からぐいっと一口飲む。そしてジョルジュの隣に座った。
「あいつはいいピアノ弾きだったよお。ミッシェルが事故で死んじまうまではなあ」
 バーテンがジョルジュを自分に注意を向けるように相槌を打った。
「そう言えば、なあ」
 バーテンが次の言葉を言う前に、ピアノの和音が響いてきた。ジョルジュの視線がそちらのほうに向いたのに、バーテンはグラスの下のお札を恨めしそうに見つめた。
 ジョルジュたちのところから、ピアノは一番遠い。ピアノの回りの男たちが口々に曲名を叫んでいた。ほとんどがジョルジュの知らない題名だ。たまに知っていても、眉をひそめるような代物だった。
 ジャン・ピエールは痩せこけた男であった。よれよれのスーツを着て、ぼさぼさの髪をそのままに、彼はピアノの椅子に座っていた。いきなり軽快な音楽が流れだす。男たちが笑いながら、女たちが嬌声を上げながら、歌を歌いだす。こんなところでしかお目にかかれない、いや、聞くことが出来ないような歌であった。
 ジョルジュはバーテンに目を戻した。
「ミッシェルっていうのは、彼の奥さん?」
 グラスをずらしてお札を自由にすると、バーテンはグラスに酒を注いで、その手でお札を懐に入れた。ジョルジュの目配せに、隣の男にも同じ酒が注がれる。男はにへらと笑いながらそれをおしいただいた。
「さあなあ、一緒に住んでいるのは知ってたけど。いい女だったよお、ミッシェルって女は」
「こんな場末には似合わない上品さがあって、ジャン・ピエールもこんなところに住んでいたが、ピアノの腕は一流だった。ミッシェルが十年前に事故に逢わなければ、今頃は世界中を飛び回っていたかもな」
 バーテンがグラスを磨きながら言った。その目に昔を懐かしむ表情を見て、ジョルジュはふと思う。ジャン・ピエールを昔から知っている人たちは、こんなに彼が変わってしまっても、今でも彼を好きなんだろう。この隣に座っている酒に漬かっている男も。
 ジョルジュはピアノのほうを向いた。ジャン・ピエールは虚ろな表情でピアノの鍵盤を叩いている。
「兄さん、何故、彼を探していたんだい」
 バーテンがジョルジュの横顔を見ながら言った。ジョルジュのアンバーの瞳がバーテンのほうを向く。
「昔なあ、ミッシェルが子供の手を引いていたのを見たなあ。小さな男の子だったなあ」
 隣の男がうつらうつらとしながら言う。
「ジャン・ピエールとミッシェルの子供?」
 ジョルジュがバーテンから男に視線を移した。男は少し重そうに瞼を上げて、そして再び目を閉じた。
「いいやあ、違うなあ……」
 そう言いながら男はすうっと眠りにつく。ジョルジュはそのままバーテンに目を向けた。
「ジャン・ピエールのピアノが聞きたくてね」
 とジョルジュは懐から紙切れを取り出して、バーテンに渡した。バーテンがチラリとそれを見て、首を振る。
「ジャンは弾きませんよ、この曲は」
 と紙切れをジョルジュに戻した。
「この曲は」
 とバーテンが言いかけるのをジョルジュは言葉で遮った。
「ミッシェルの好きな曲だったから」
 バーテンが驚いたようにジョルジュを見る。
「兄さん、ミッシェルを知っているのかい」
 ジョルジュが不意にジャン・ピエールのほうに目を向けた。何曲も軽快な曲を続けざまに弾いて、ピアノの上に置いてある酒瓶を掴むと、ゴクリゴクリと飲んだ。ふうっと重い息を吐いて、再びピアノに向かったが、何も弾こうとはしなかった。
 ジョルジュはふと、回りを見回す。いつの間にか男たちの姿が消え、女たちはそれに伴って消えた。
「彼らにとって、ここは束の間のまどろみの世界なんだよ」
 バーテンがそう言って、グラスを磨いていた。
 古ぼけた木のテーブルに流れ出た、数々の零れ落ちた夢たち。それが酒瓶とグラスとピーナッツの殻と一緒にそこここに転がっていた。
 ジョルジュは包みを手に取ると、ピアノのほうへと歩いていった。ジャン・ピエールは酒瓶を手にしたまま、時折、鍵盤を叩いている。そして、近づいてきたジョルジュのほうを向いた。
 よれよれのスーツに、手入れもしていないようにぼさぼさの髪。そんなジャン・ピエールの姿をアンバーの瞳に映して、ジョルジュはすぐ側に立ち止まった。
「ジャン・ピエール」
 ジョルジュの声にジャン・ピエールの瞳が僅かに揺らいだ。だが、また虚ろに変わる。
「この曲を弾いてくれないか、ジャン・ピエール」
 ジョルジュは紙切れをジャン・ピエールの目の前に差し出した。ジャン・ピエールはその紙に書かれている文字を読んで、すぐに首を振った。
「ミッシェルが死んでから、この曲を弾いていないんだろ。ミッシェルは本当にこの曲を愛していたからね」
 ジャン・ピエールの瞳に光が少し宿った。
「ミッシェルを知っているのか、お前」
 ジョルジュはピアノの近くのテーブルから椅子を持ってきて座った。
「ジャン・ピエール、僕はあんたにも何度か会ってるんだよ。あんたがミッシェルのために作曲してたことも知っている」
 ジョルジュは足を組んだ。
「俺はお前なんか知らない」
 ジョルジュは少し笑った。
「そうだろう。そんなに酒に脳味噌を侵されていたんじゃあ、回る知恵もないだろうね。僕も、あんたのこんな姿を見たくはなかったさ」
 ジョルジュは少しジャン・ピエールから目を逸らして、ふと零した。
「あの頃のあんたは輝いていた。だからミッシェルもあんたについていったんだ。僕も二人の輝きは本物だと思った。こんな場末に住んでいても、あんたは世界を相手に出来るほどのピアニストになるってね。忘れているのかい、ジャン・ピエール、あんたはピアニストなんだよ」
「ピアニスト……」
 ジャン・ピエールの酒浸りの脳味噌に少しずつ光が灯る。ジャン・ピエールの脳裏にミッシェルの笑顔が浮かんだ。



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