「かあさんは?」 自分の席に湯飲みを置いた千歳はそう言って忠を見た。 「事故に逢って、明日まで検査のため入院だ。傷はたいしたことない」 「事故? そうか、だから、親父が奮闘していたわけだ」 千歳は呟いて、忠の前に座った。 「それで、こんなに豪勢な寿司が食卓に上る、というわけね」 ラップを外して、千歳は忠に彼の箸を渡す。そして、 「いただきます」 と言って早速食べはじめた。忠も黙々と食べていた。 「俺、親父のおたおたした姿って、初めて見たよ」 あらかた食べたところで、千歳がポツリと言った。忠がえ、と千歳を見た。 「だって、俺の前の親父はいつも堂々としていて、何があってもその姿は揺るぐことがない、と思っていた」 忠はそう言われて、憮然とする。 「考えてみれば、俺と親父がこうして二人きりでいることってなかったよな」 千歳の言葉に忠はハッとした。家族を愛していたが、そのために、会社を大きくしようと朝早くから夜遅くまで働いていた。千歳が起きる前に家を出て、寝た頃に家に帰っていた。そして何日も家を留守にすることも多かった。 暫く、二人とも何も喋らなかった。時計の進む音が、微かに響くだけであった。 「なあ、親父、聞いてもいいかい。親父の子供の頃の夢って何だったんだ」 「夢?」 忠は遠くを見つめた。それを考えるのは何年ぶりのことだろうか。いつの間にか忘れてしまっていた。それを思い出すことを。夢を追いかけることを忘れて、手に入れることが出来るものだけを掴んでいた。だが、子供の頃の夢は覚えていた。 「作曲家……ショパンのような、もしくは、ピアニスト……」 千歳が目を見張って忠を見つめた。そんな夢を持っていたとは、息子の自分には想像がつかなかった。 「どうして、その夢を捨てたんだ?」 忠は千歳をジッと見つめた。その哀しげな瞳に千歳は胸を突かれる。 忠は口を開いた。だが、それは千歳の質問に対する答ではなかった。 「タ、ターン……」 と口ずさみはじめた曲を、千歳は知っていた。千歳も好きな曲であった。そしてふと、思い出すのだ。 『お前が赤ちゃんの頃ね、よく泣く子だったわ。でも、この曲をかけると不思議に泣き止むの。どうしてかしらね』 美里が昔、そう言っていた。それを思い出した千歳であった。 千歳は忠を見つめる。そしてやがて口を開いた。 「親父、夜想曲にふさわしく、何か飲もうぜ」 忠はふっと口を閉ざして、千歳を見つめる。そして初めて気づいたように、 「そうか。お前はもう酒が飲める年になっていたんだな」 と笑った。千歳も少し笑う。そしてグラスを二つ出し、コポコポとブランデーを注いだ。 「そうさ。親父と人生を語れるようになっていたんだぜ」 千歳はそう言って忠にグラスを渡し、軽く自分のグラスを触れ合わせた。軽やかに響くその音色。 千歳が小さく口ずさみはじめる。それを聞いていた忠がやがて口を開いた。 二つの音色が夜の帳の中に消えていった。
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