忠は玄関の鍵をガチャと開けた。それを自分で開けるのは、いったい何年ぶりだろう。いつも美里が開けてくれていた。忠が玄関灯を点けると、ボウッとした明かりが辺りを照らす。忠は自分の部屋に向かいながら、次々と明かりをつけていた。
 忠はスーツを脱ぎ、椅子に投げ出した。そして部屋の明かりをそのままに忠は階下に下りた。
「千歳が帰ってくるのは、今日は七時ごろと美里が言っていたな」
 忠は呟いて時計を見上げた。六時過ぎであった。忠は椅子に座りかけて、
「何か頼んでおくか」
 と電話の側に行く。電話の側の住所録を見つけ、忠はそれをぱらぱらとめくった。
 早月家ではあまり店屋物を頼まない。美里がきちんと家事のことは手抜きをしないからだ。だが、急な客のための出前のメニューは置いてあった。それを忠は見ながら考えていた。千歳は七時ごろに帰ると言っていたが、確実ではないだろう。それにごろ、と言えば、どこまでが許容範囲なのか判らない。となると、中華などの食べごろが狭いものは選べない。そう思って、忠は中華料理のメニューを置いた。
「やはり、寿司かな」
 呟いて、忠は電話を掛ける。
「ああ、早月だが、二人分出前を頼むよ。いつも届けてもらっているものでいい。私はよく判らないが、うちの奴がいつも頼んでいるだろう。よろしくな」
 そう言って忠は受話器を置いた。ソファに座ってまた時計を見た。いつもならまだ会社にいる時間である。何時間も後に帰ってきて、遅い夕食をすませて、風呂に入っている。
「風呂か」
 と忠は気づいて、バスルームに向かった。綺麗に洗ってあるが、風呂は沸かされていなかった。忠は風呂桶の横の説明書を読みはじめた。
「とにかく、水をまず溜めるんだな」
 忠は風呂の栓をして水道の蛇口を開けた。そして居間に戻った。
 再びソファに座って、ただジッと時計を見つめていた。
 ピンポーン、とチャイムが鳴った。忠は寿司が届いたのか、と思って、玄関に出る。寿司政の顔見知りの出前持ちが、出てきた忠を見て、おや、と首を傾げた。
「奥さんはいらっしゃらないんで、早月さん」
「何だ、私だと都合が悪いのか」
 忠に憮然とした表情で言われて、
「いいえ、すみません」
 と出前持ちは冷や汗をかいてお金を受け取ると、早々に立ち去った。忠は憮然とした表情のまま、寿司を食卓に運ぶ。それを並べておいて、いったんはソファに座ったが、すぐに立ち上がった。
「お茶がいるな」
 忠はそう呟いて、回りを見渡す。ポットは目の前にある。急須もそこにある。蓋を開けたが、中は空っぽであった。忠はお茶の葉は、と探すが、それだけが見つからなかった。端から順に戸棚をしらみ潰しに探せば見つかるだろうと踏んだ忠は、その作業に夢中になっていたので、他のことに頭が回らなかった。
「かあさん、風呂の水が出しっぱなしだったぜ。止めて沸かすようにしておいたから」
 と千歳が言いながら居間に入ってきた。そして驚いた顔で忠を見つけた。
「親父、何やってんだよ」
 忠はその声に気づいて、驚いたように振り向いた。手には小皿を持ったままで、食卓の上には寿司と、その回りに積み上げられた調味料や皿。千歳は忠を見つめて、
「小皿は必要かもしれないけど、この惨状は何なわけ?」
 と言った。忠は少し顔を赤らめて、
「お茶を入れようと思ったんだが……。やはり寿司はお茶を飲みながらが一番だろ」
 と言った。
「ああ、そう」
 千歳は答えて、
「それでどうして、山のように使わないお皿とかが出てくるわけ?」
 と言った。考えてみれば、顔を合わすのも数日ぶりで、口をきくのもそれ以上の日数が経っていた。それが回復早々、こんな会話とは……。
「お茶の葉が見つからない」
 忠の答に千歳は呆れて父親を見つめた。だが、口には出さなかった。
「俺がいれるよ。親父は座ってな」
 忠は素直に椅子に座った。そして所在無げに千歳の動きを目で追っていた。千歳はまず食卓に出ているいらない物を、元の場所に仕舞い込んで、湯飲みを二つ出し、それにお湯を入れた。急須の側にあるお茶の缶を開けて、急須に葉を入れる。
 やがて、忠の前に湯飲みが置かれた。


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