− 第 1 幕 −



 早月忠は窓から外を眺めていた。この辺り一帯が、自分の会社の建物だった。それこそ、がむしゃらに働いて、小さな町工場をここまで大きくしたのだ。結婚をし、息子が生まれ、家族には何不自由ない生活をさせてきたつもりだった。仕事で忠は家を留守にすることが多かった。息子の千歳が幼い頃はまだしも、学校に通うようになると、家の中で会うことも少なくなっていた。
 だがそれは、仕方のないことだと思っていた。家族のために自分は働いているのだから……。妻である美里の話では千歳はそこそこの成績だと言っていた。美里も妻として母親として、そつなくやっている。忠はそれで今の暮らしに満足だった。
 忠は机の上の電話のベルで、仕事のことに頭を切り換えた。
「はい」
 忠はモニターのボタンを押した。
「社長、大変です」
 モニターから聞こえてきたのは、秘書の守谷の声であった。今年、三十半ばになる守谷は、この道十年のベテランであった。その守谷が興奮しているとは、と忠は驚いた。これは余程のことが起こったに違いない。
「守谷君、何があったのかね」
「はい。社長、奥様が事故に逢われて、病院に運ばれたそうです」
 守谷の答が、忠にはすぐに理解出来なかった。仕事のことばかり考えていた忠にとっては、それがまともな反応だったのだ。
「社長、すぐにお車を回しますので、病院に向かわれてください」
 守谷の声が遠くに聞こえる。事故? 病院? それは、どういうことだ?
「社長?」
 不審気な守谷の声に、忠はやっと口を開いた。
「スケジュールは、詰まっていたのではないかね」
「え」
 と守谷の声が一瞬途切れる。だがすぐに、
「いいえ、本日のこれからの予定はございません」
 と事務的な答が返ってきた。
「そうか。では、私は病院へ向かう」
 そう言って、忠はモニターを切り、ドアを開いた。守谷が立ち上がった。
「守谷君、君は定時になったら帰りたまえ。明日の予定はどうなっていたかね」
 守谷はチラリとパソコンの画面に目を走らす。
「明日は、昼食を山辺様とご一緒される予定になっております。明日のご予定はそれだけでございます」
「そうか、判った」
 忠はそう言って部屋から出ていった。守谷はその背を見送って、
「さて、スケジュールの調整をしなければ……」
 と呟いた。忙しくするのが好きな忠に、時間さえあれば、予定を入れるようにと守谷は言われていた。今日も明日も、予定はぎっしりと詰まっていたのだ。スケジュールが空いている、と言ったのは嘘であった。そう言わなければ、忠はそれに従うだろう。それを長い付き合いの守谷は判っていた。
「せめて、こんな時ぐらい、仕事を忘れていただきたいのだけど……」
 守谷はそう呟いて座ると、受話器を取り上げてスケジュールの調整を始めたのだった。

 美里はベッドの上に起き上がって、入ってきた忠を見つめた。
「あなた……」
 驚いた顔をしている美里を、忠がマジマジと見つめた。
「事故に逢った、と守谷君が言っていたが……」
「外傷自体は、掠り傷程度でしたの。ただ、ちょっと頭を打ったものですから。検査のために二日間、入院が必要ということでしたわ。守谷さん……」
 と美里は言いかけて、口を噤んだ。そして、
「あなた、お仕事、よろしかったんですの? 私は大丈夫ですわ」
 と言った。
「今日は予定はないと、守谷君が言っていた。明日も、昼食会までは仕事は入っていない」
 忠が憮然とした表情で言った。美里は心の中で納得する。忠の秘書として長い守谷のことを、美里はよく知っていた。だから、守谷が自分のために今日から明日にかけてのスケジュールをキャンセルしてくれたことに気づいたのだ。その心遣いが美里は嬉しかった。
「あなた、二日間ほど家のことが出来ませんけど、どうしましょう。千歳と一緒に外でお食べになります? それとも、何か店屋物をお頼みになります?」
 美里が心配そうにそう言うのに、
「大丈夫だ。お前はゆっくり休んでいろ」
 と忠は言って、ゴホンと一つ咳をして、
「明日の朝、寄るが、何かいるか」
 と付け加えた。美里はにっこり笑うと、
「あなたのお顔を見るだけでいいですわ」
 と言った。忠はちょっと目を逸らして、
「じゃあ、帰る」
 とスタスタと歩きだした。
「あなた、ありがとう」
 美里がその背に投げかけた。



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