「これから始まるノクターン、バックに流れているこの曲、ご存知の方はたくさんいらっしゃるでしょう。ピアノの詩人ショパン、彼の夜想曲作品9の2と呼ばれている曲です。Nocturneはこの曲を愛する人々の物語です」 スポットライトの中に一人の男が現れた。黒のシルクハットを目深に被り、黒い蝶ネクタイに、黒の燕尾服。胸ポケットには、一輪の白い薔薇、白い手袋に黒いステッキを手にしていた。 少し離れた場所に朧気に浮かんできたのは、グランドピアノであった。そこから曲は聞こえてくる。光の輪がゆっくりと拡がって、淡いレモン色のドレスの裾が見えた。そして白く長く、鍵盤の上を軽やかに動く指。その指がいきなり止まった。 男に当たっていたスポットライトが消え、ピアノの側に男が現れた。 「どうして止めるんです? 小夜子さん」 鍵盤の上で止まっていた指がビクリとする。光の輪が再び拡がって、少女の顔が男を見つめた。十五、六歳ぐらいの高校生だろうか。 「あなたには関係ないでしょう。私はもうピアノなんか弾かない。もう、二度と弾かない」 「小夜子さん、あなたのノクターンは最高ですよ」 少女−小夜子は顔をキッと上げた。 「あなたに何が判るというの。私のショパンは所詮は上っ面なのよ。どうしても感情が込められなくて。技巧的には最高だって、みんなが言うわ。でも、私にあるのは、それだけなのよ。私にはピアノしかなかった。でも私は、もうピアノを弾けない」 男が白い手袋のまま、鍵盤を叩いた。和音が響く。 「だから、死のうと思ったのですか」 小夜子がギクリと顔を強張らせた。 「小夜子さん、本当にあなたはピアノが、ショパンが、そして夜想曲が好きなんでしょう。死のうと思う直前に、あなたはそれを選んだのですから。小夜子さん、ほんの少し、私の話を聞いてくれませんか。死ぬのをほんの少し延ばしてください。あなたは夜想曲を好きでしょう。そして、これから語る彼らも夜想曲を愛したのです」 小夜子がほんの少し笑った。 「いいわ。でも、それを聞いても、私の気持ちが変わらなかったら、もう私を止めないでね」 男は頷いた。 「あなたは誰? どうして、私を知っているの?」 男は目深にシルクハットを被ったままで、口元を少し笑わせた。 「謎の人物Xとでも言いましょうか? それでは芸がないですね。では、ショパンに因んで、フレディとでも呼んでください」 途端にライトが消え、暗闇の中に二人の姿は見えなくなった。
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