「これを、麗景殿の女御様に渡しておいてちょうだい」 二日ほどの間、誰も部屋の中に入らせることなく、閉じこもっていた桂子であった。出てきた桂子に、小言を言おうと思った女房は、目をぱちくりとさせた。桂子と麗景殿の女御の接点が見えなかったからだ。 「お前が必ず、手渡しをするのですよ。桐生から、と言えば、きっと会ってくださるわ」 そう言って桂子は女房を急かした。女房は首を傾げながらも、その箱を大事に持って出ていった。 桂子はふうっと疲れたように座り込む。その隣にすうっと月夜が近づいた。 「桐生の姫君、私もずっと側に寄ることを許されませんでした。いったい、女御様に何を言づけになったのです?」 桂子は少し笑った。 「心の痛みは、簡単には消えないけど、ただ、女御様がいなかったら、きっと、私はすべてを否定していたでしょうから。そう、お前さえね。私は、今はまだ桐生を忌んでいるわ。でも……」 桂子の表情が暗くなって、月夜は心配そうに見つめていた。 「……普通に、恋をしたかった……。桐生という枷を背負ってではなく、ただの女として出会いたかった」 「桐生の姫君……」 「ごめんね、月夜、こんなことを言って」 月夜は首を激しく振った。 「いくらでもおっしゃってください。私にだけは嘘をつかずに。思っていることをおっしゃって。心の中に溜めないで吐き出せば、少しは楽になるでしょう」 桂子が口元を綻ばせた。 「私は初めて恋した相手と結ばれることはないわ。でもね、きっと、私よりずっと先の桐生の時には、そんなことがないように、私が出会うことのない彼らのために、今からお膳立てをしてあげるの。おかしなことだと思う? 月夜、私がもっと後でお上にこの思いを打ち明けたとしたら、お上が応えてくれたと思うのは。不思議なんだけど、そうなったような気がするの。そして、何故だか、遠い遠い先に、私たちは出会うって、そんな風に感じるの」 「姫君……」 桂子が月夜の体をそっと手で挟んだ。 「神楽笛の精霊がね、私が立ち去る時に、名前を教えてくれたわ。花影と申しますって。月夜、お前は私が何を麗景殿の女御様に渡したか、気づいているんでしょう」 月夜がそっと頷いた。 「あの時、舞を舞いながらふと浮かんだの。あのお二人に相応しいお香の匂いが。そしてやっとさっき出来上がったの」 桂子が月夜にそっと頬ずりする。 「お前の月夜と神楽笛の花影、お香の名前は月影。きっとあの月影が、遠い遠い未来で、私たちを出会わせてくれるって、そう思うのは、哀しいこと?」 「桐生の姫君、桂子様、きっと叶いますわ。哀しいことではありませんわ。それは楽しみなこと。ねえ、そうでございましょう」 桂子が月夜を手の上に乗せたまま立ち上がった。そして几帳の裏の、いつもの着物に着替える。 「じゃあ、その手伝いを私もしなければね」 「京を出ていかれるのですか」 「ええ、京は好きよ。だけど、ここでは桐生のことを知っている者がたくさんいるわ。隠れる必要はない。だけど、京ではあまりにも誤解されているから。女御様のような方ばかりではないわ」 そう言って桂子は脱いだ着物の上に、月夜の扇子を置いた。 「姫君、私を置いていくおつもりですか」 驚いて月夜は言った。 「月夜、私と一緒に来てくれるの?」 月夜は桂子に取り縋った。 「私は代々の桐生に可愛がられ、桂子様は私の娘のように思われ、そんな私が姫君から離れてどうして生きていかれましょう」 桂子は扇子を懐に入れた。 「ごめんね、月夜。ごめんね、いつでも一緒にいたいと思っていたのは、私のほうなのに。それを忘れそうになって……」 「さあ、参りましょう。今なら誰の目にも止まりません」 月夜がにっこりと笑って桂子に言った。桂子は頷いて庭に下りる。そしてもう一度屋敷をジッと見つめて、そして暗がりへと消えた。 京の桐生屋敷から桂子が消えて、そしてその後の足取りを誰も知らなかった。
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