麗景殿。 麗景殿の女御は近づいてくる足音に脇息にもたれていた体を起こした。お上がいつもなら渡ってくる時間はとうに過ぎたので、今日の渡りはないものと思っていた。だが、御簾の向こうに現れたのはお上であった。 「篠子、約束通り連れてきたよ」 上機嫌でお上は御簾を持ち上げた。後ろに従っていた男が抱えていたものを女御の近くに下ろす。 「まあ、この子がお上がお会いになっていたキツネさんなのですか?」 女御は恐る恐る桂子を覗き込んだ。桂子は目を開けてはいたが、その焦点は鈍っていた。 「まあ、可愛らしい」 女御はそう言って桂子の頬にそっと触った。 「篠子、実はキツネじゃなかった。でも、それよりももっと珍しいものだ。ほら、大臣が飼っている話をしたことがあっただろう。その桐生だ」 女御の桂子を触っている手がビクッと震えた。桂子はそこではっきりと意識を取り戻して、起き上がると二人の前に座った。 「あなたはお上だったのですね」 桂子の前には篠と名乗っていた男、それがお上と呼ばれているのなら、ここは宮中であることに桂子は気づいた。そしてくるりと辺りを見渡す。 「では、あなたは麗景殿の女御様」 篠子と篠が呼んでいたのが、彼女なのだと桂子は判った。お上は興味深げに、女御は少し顔色をなくして、桂子を見つめていた。 「あなたが桐生?」 ジッと桂子を見ていた女御は、そのふくよかな顔に笑みを戻して桂子に近づいた。反対に桂子はギクリとする。 「人の噂など当てになりませんわね、お上」 そう言ってお上のほうを見て、彼の手をそっと握った。 「いけませんわ、そのような目でこの少女を見ては。お上、桐生という名前だけで、この方を判断なさったのではありませんか。私、実際に会ってみて判りましたわ」 女御は桂子の頭をそっと撫でる。桂子は女御の清らかな思いが自分に入り込んでくるのに気づいた。そして再び、桂子の目に月夜や他の精霊たちの姿が映るようになった。 桂子は女御が桂子より少しだけ年上なだけなのに、まるで母親のように感じた。その母親に諭されたように、お上が桂子に向かって頭を下げる。 「そうだな、あなたの言う通りだ。この通り、私の暴言を許してくれるかい、桂」 桂子は微笑んだ。 「もちろんですわ、お上。でも、一つだけ条件があります」 お上が桂子を見る。桂子は立ち上がって、懐から扇子を取り出した。 「笛を吹いていただけません? よろしければ、麗景殿の女御様にも」 そう言って桂子は扇子を拡げた。山の端に昇る満月の柄であった。 「当代の桐生、この桂子の舞をお見せしますわ」 お上は懐から神楽笛を取り出した。女御は脇息の近くに置いてある箱から篠笛を取り出した。神楽笛の後を追うように、篠笛の音色が響く。桂子はゆっくりと舞いはじめる。 神楽笛と篠笛の音と桂子の舞に、月夜たちこの辺りにいる精霊たちが桂子の回りで舞っていた。月の淡い光に、お上たちに見えるはずのない彼らの影が映る。 最後の一音を同時に吹き終えたお上と女御は、いつの間にか桂子の姿が消えているのに気づいた。 「行ってしまわれたのですね」 女御がお上にもたれかかるようにして言った。お上は女御を軽く抱き締めた。 「あなたに出会っていなかったら、私はあの少女に恋をしていたかもしれない」 「篠」 女御の言葉に驚いたようにお上が女御を見た。女御が微笑んだ。 「あなたが望んでいたように思われたのですわ」 お上は女御を再び軽く抱き締める。 「私はあの少女に、篠、と呼ばれるのが好きになっていた。あなたにつけた名前から取ったのだが、彼女の口からそう呼ばれるのが、いつの間にか好きになっていた」 女御は遠くを見つめた。 「あの少女は本当にお上のことが好きだったのですね。もっと、もっと先で、違った出会い方をしていたなら、きっと私は負けていましたわ。でも、あの少女なら、お上を任せることが出来たでしょうね」 二人は顔を見合わせて、互いに微笑んだ。 「きっと、私たちの前には、もう彼女は現れないでしょう。でも、桐生の名は受け継がれて、いつか私たちのずっと先の世代の子孫が、きっと出会うのでしょうね」 女御は桂子の最初に見た傷ついた表情を思いだして、胸を痛くする。その時の桐生も、今度のように傷つけられないと、それは否定出来ない。女御はその思いを胸に秘めたままで、お上に体を預けた。 「中宮になることを承知してくれるね」 お上が女御の顔を覗き込むようにして言った。女御が微笑んで頷いた。 「私たちだけでも受け継がせましょう、桐生のことを。私たちのずっと先の子孫たちによって、同じ間違いを起こさせないために」 「そうだな」 お上はそう言って、フッと宙を見つめた。 「笑われるかもしれないと、黙っていたんだが……」 女御は少し首を傾げた。 「舞っていたのは、あの少女だけだった?」 囁くように言うお上の言葉に、女御は少し経っておかしげに笑った。 「月影に仄かに匂う百檀と陰に映りしその影の陰」 お上はその女御の言葉をジッと聞いて、そして再び優しく女御を抱き締めた。 誰が下ろしたとも見えずに、御簾が静かに下りた。
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