そして次の日も鴨川の辺に向かう桂子であった。今度は篠のほうが先にそこにいて笛を吹いていた。桂子は声を掛けることなく木にもたれて聞いていた。今日は篠は一人のようだと、ススキたちが教えてくれた。
「美しい音色だわ、ねえ、月夜。心の汚い人にはこんなに澄んだ音色はだせないわ、そうでしょ、月夜。彼女が悪い人ではない、と言ったのは、本当のことね」
 彼女とはもちろん神楽笛の精霊のことで、桂子に気づいて会釈をし、今は篠の肩辺りに浮かんでいた。
「そうでございましょうね」
 月夜は考え考え言った。
「月夜、お前が心配していることを、私が気がつかないと思って? お前は何も心配しなくていいの」
「桐生の姫君」
 月夜が次に言う言葉を見つける前に、篠がくるりと振り向いた。
「やあ、桂」
 そう言って笑いかけると、神楽笛を懐に入れて桂子の側に来た。その優しい微笑みに、桂子は心が温まるのを感じる。篠に微笑んでもらうだけで、こんなにも幸せを感じるなんて、こんな感情が自分にあったなんて、信じられない桂子であった。篠のことだけを考えることが出来れば、それはどんなにか幸せであろう。
「篠、会いたかった」
 自分の行動に一番驚いている桂子であった。いきなり篠の胸に飛び込んで抱きついたのだ。篠は驚いたなりに落ち着いて、軽く桂子を抱き締めた。
「本当に人間の子供みたいだ」
 笑って篠が言った。桂子は篠を見上げる。
「どうして私をキツネだと言うの?」
「こんなところに、こんな刻限に、人間の子供がいるはずはない。いるのは、狐狸の類だと思っただけだよ」
 篠の手が桂子の頭を撫でる。桂子はいつまでもこうしていたい、と思った。それが叶うのならば、自分がキツネだと思われたままでもいい。そうも思った。
「桐生の姫君」
 月夜の呼び掛けが桂子には届かない。
「桐生の姫君は、恋をするという気持ちを持たれたのですね」
 神楽笛の精霊が月夜に言った。月夜が頷いた。
「姫君とて人の子、いつかはこんな日が来ると思っていました」
 神楽笛の精霊は不思議そうに月夜を見つめた。月夜は桂子を見ながら哀しげに微笑む。
「私たちは桐生のことを知りません。でも、あなたはよくご存知なのですか」
 月夜はふと目を伏せる。
「桐生は私たちの守護者、それだけのことですわ。他には何もありません。あなたも知っている通りに。私はただ、長い間、代々の桐生の方々に可愛がっていただいているだけですわ」
「姫君の目に私たちの姿が映らなくなることが、何でもないことだとおっしゃるのですか」
 月夜は神楽笛の精霊に目を移した。そして微笑む。
「私たちは間違ってはいけませんわ。代々の桐生に、私たちは何かを求めましたか。あなたは何を求めるつもりです?」
「それは……」
 と神楽笛の精霊は口を噤んだ。
「桐生の姫君は、桐生は、私たちの守護者、それでいいのですわ。その目に私たちが映らなくなろうとも、彼らが私たちを忘れることはないのですから」
 月夜はそう言って桂子に目を戻した。己の望む通りに生きて欲しいと、月夜は願っていた。それで自分を忘れられても、それでもいいと思っていた。代々の桐生が、己の望むままに相手を見つけることは、ほとんどない。あるいは時代が、あるいは回りが、彼らの望みをことごとく奪うことをした。それが桂子の上にもかかってくるかもしれない、ということを月夜は心配していたのだ。
 中納言たちの申し出を桂子は邪険にしていた。彼らが気に入らなかった、というのも一つの理由だが、桂子が桐生という枷を自分で取り除きたいと思っていたことも事実なのだ。
 だが、桂子が初めて恋をした相手を、月夜はジッと見つめていて、桂子の哀しい泣き顔しか浮かばないことを訝った。篠と名乗った男の正体を、月夜はまだ知らない。神楽笛の精霊も、教えてはくれない。ただ、桂子の恋が実らないことが、たぶん、近い将来の真実であることに気づく。かといって、桂子に何と言えばいいのか。いや、この恋が実るか、破れるかしないと、きっと、再び桂子の目が月夜に向くことはないのだ。
「篠が好き」
 桂子が篠に抱きついたまま顔を上げて言った。篠が笑う。
「私もこんなに可愛い人間の子供に化けることが出来る桂が好きだよ。間違ってふさふさの尻尾を出さないかな、って思ったりして」
 篠が首を少し傾げて、
「うん、本当に篠子に会わせたいよ。一緒に来てくれないか、桂」
 と言った。桂子はジッと篠を見た。
「篠子……と言うのは、篠の好きな人?」
「好きな? そうだね、大事にしたい人かな。今、一番大切な人なんだよ。篠子というのは、本当の名前ではないんだけど、彼女は篠笛の名手なんだ」
「だから、あなたの名前も篠と名乗ったのね」
 桂子が哀しそうに笑う。篠はふと心が痛んだ。
「あなたは誰?」
 桂子の問い掛けに篠は瞬きもせずに桂子を見つめていた。
「私は……ずっとあなたの側にいたい。あなたに側にいて欲しい。私を愛して欲しい。私とともに生きて欲しい」
 篠は一瞬呆気に取られたようだったが、
「ハハ、ハハハ」
 と笑いだした。
「それは無理だよ。私は人間だから、キツネとは一緒になれない」
「私は、私は本当は、人間なの。キツネじゃなくて、十四歳の人間の少女なの」
 篠が眉をひそめた。
「まさか……。それが本当なら、着ている物もかなりの上物、それなりの身分の家の者のはず。それがこんな夜更けに、こんな場所にいるわけがない」
「私は桐生。誰も私に近づこうとはしないわ」
 篠が桂子の言葉に、桂子から離れた。
「桐生?」
 篠の表情がだんだんと変わるのを、桂子は気づく。
「ああ、大臣が飼っているという噂の、人間によく似ているという。それは上々、篠子がもっと喜ぶ。一度、会わせろと大臣に言ったのに、出し惜しみをしていた。キツネよりも珍獣ならば、面白い」
 嬉しそうな顔になる篠を、桂子は顔色を失くして見つめた。膝に力が入らなくなり、がくがくと倒れかかる桂子を篠は抱き留めて、そしていつの間にか後ろにひざまずいている男に目配せをする。男は桂子を軽々と抱き抱えると、篠の歩きだす後ろを無言でついていった。桂子は意識はあったが、それを考えることをしなかった。今の桂子には月夜たちの姿が見えない。月夜たちは彼らとともに、移動せざるを得なかった。


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