桐生屋敷。 桐生屋敷と呼ばれているが、それほどの大きさを持っているわけではない。桂子の数代前からこの場所に住んでいるのだ。そしてそこは宮中から見て、艮の方角。所謂鬼門に当たった。桐生屋敷は、その門の前に屋敷を構え、京を守る役目もしていた。 現在、桐生の名を名乗っているのは、桂子だけであった。直系以外は桐生を名乗ることが出来ないのだが、桐生家の長い系図で、子供を二人以上持った者は稀であった。殆どが一人だけの子供を作り、そしてその子供も一人の子供を作る。それを途切れることなく続けてきた桐生家であった。 そして今の桐生家の当主である桂子であった。十四歳である桂子が当主を名乗るのは、父親であった前当主がすでに亡くなっているからであった。父親が亡くなったのは桂子が十歳の時。まだ三十歳前半であった父親が急死をし、桂子は幼くして桐生を背負ってしまったのであった。 桂子は縁側に腰掛けて庭を眺めているようであった。月夜はその膝の上で同じように庭を見ている。 「桐生の姫君」 月夜が見上げると桂子は無理に笑った。それが痛々しくて月夜は哀しくなる。今までそんなことはなかった。それが何が原因でこうも変わってしまったのか。 「桐生の姫君、今夜はお出かけにならないのですか」 「え」 と桂子は目を逸らす。月夜はふと言葉を選んだ。 「今宵は満月、キツネが人間の子供に化けても、魔力は長続きしましょう」 桂子の横顔の表情が少し変わる。月夜はそして合点したのだ。この時代、女性の十四歳はすでに結婚していてもおかしくはない。先日の中納言の申し出も、決して年齢から言うと早過ぎはしないのだ。月夜も桂子に幸せな結婚生活をして欲しいと願っていた。ただ、桐生、という家の枷が、桂子からそれを奪うかもしれない、それを秘かに懸念していた。 桂子は、この前会ったあの男性に恋をしているのだ、と月夜は判った。彼が何者なのか、月夜は知らない。もちろん、桂子も知らない。神楽笛の精霊も彼が何者なのかは教えてはくれなかった。 桂子はパッと立ち上がると、几帳の奥に置いてあるいつもの少年の着物を着た。女房が持っていったのを、いつの間にか取り戻している桂子であった。月夜は桂子の嬉しそうな、そして心配そうな面持ちを几帳の上に座って見つめていた。 そして鴨川の辺にやってきた桂子であった。この前の木のところで背をもたれる。男の姿はなかった。桂子はそのまま何も喋らずにずっと川のほうを見つめていた。月夜は、ふわふわと桂子の回りを漂っていた。 ふと、月夜の目が遠くを見る。次いで桂子もそちらを向いた。笛の音がしてきたのだ。だんだんと笛の音が近づき、この前の男が現れた。今日も質素な着物であった。男の回りにふわふわと浮かんでいる神楽笛の精霊が桂子にそっと頭を下げた。男は桂子から少し離れた場所に立ち止まると、笛から口を離した。 「やあ、また会ったね、キツネさん」 男はそう言って微笑んだ。 「ええ、あなたは笛の精?」 桂子はそう言って笑った。男が一瞬桂子を見つめて、そして笑った。 「そう、私は篠と呼んでくれ。君の名前は?」 桂子はふと目を伏せて、すぐに上げた。 「桂」 そう言って桂子は少し篠と名乗った男に近づいた。 「笛をまた吹いてください」 桂子はそう言ってススキの中に座った。篠はその近くに座ると神楽笛を口に当てた。 笛の音が低く、高くススキの中を響いていく。鴨川のせせらぎがそれの後を追っていた。桂子は目を閉じて、篠の吹く神楽笛に耳を傾ける。そしてフッと篠から漂うお香の匂いに気づいた。自分のつけているお香によく似ていたが、僅かに何か他の物が混ざっているような匂いであった。桂子は自分でお香を調合することもある。今、つけているのも自分で造ったものなのだ。 (何かしら?) と考えていた桂子に月夜の声が響いた。 「桐生の姫君、回りを囲まれていますわ」 切羽詰まったような声ではないが、明らかに不審そうに言う。桂子は目を開けた。背の高いススキの中に座っている桂子には回りの様子など見えない。桂子の肩に乗っている月夜からも見えないのだが、他の精霊たちに教えてもらったのだろう。 不意に笛の音が止まる。桂子は篠のほうを見た。 「どうしてお止めになるのです?」 月夜に言われたことは気づいていないふりをしながら、桂子は言った。回りを囲っているのは、この目の前にいる篠という男の関係かもしれなかった。とすれば聞いても無駄なことだ。そうならば、篠は、桂子の正体を知った上で近づいたと考えるのが適当だろう。あるいは、桂子にではなく、篠に用があるのかもしれない。身分のある男のように見える。命を狙われることも無きにしも非ず、ということだ。 篠は桂子の頭をそっと触った。そして不思議そうに桂子を見る。 「本当に人の髪のようだ。こんなに上手く化けることが出来るとは、お前はよほど修行をしてきたキツネかい、桂?」 桂子は篠の手から逃れるように、少し後ろに下がった。 「篠子にもお前を会わせたいよ。きっとお前も気に入ってくれると思うよ。篠子は優しい人だし」 篠が手を引っ込めて言った。桂子は篠が、自分を桐生と知っているわけではないことに気づいた。そしておそらく、本当にキツネだと思っていることにも。それならば回りの者たちは、キツネとしての自分を捕らえようとしているのか、篠自体に用があるのか。 そして篠子という名前が気になった。 「桐生の姫君、どうなされるのです?」 月夜が心配そうに言った。桐生であることで、人間たちに対してはどうしようもないが、彼らが使っている物に対してはお願いすることは出来るのだ。あるいはこのススキたちにも。だからこの場を逃げることなど桂子にとってどうでもないことなのだ。 「篠」 と桂子は篠をジッと見た。 「また笛を聞きに参りますわ」 そう言って桂子は立ち上がった。篠が続けて立ち上がる。桂子は身を翻した。背の高いススキの中を桂子が走る。篠が辺りに目配せをしてその場でじっと待っていた。しばらくして篠の前に一人の男がひざまずいた。 「申し訳ございません」 そう言って男は去っていった。篠はさほど残念そうな表情は見せず、再び神楽笛を吹きはじめた。 そして桂子は、といえば、それほど離れていない場所でその笛の音を耳にしていた。桂子が立ち去る前に、神楽笛の精霊がそっと囁いた言葉を思いだしていた。 「悪い方ではありませんわ」 それだけ言って神楽笛の精霊は頭を下げたのだった。 「月夜、また笛を聞きに来たい、と言ったら怒る?」 月夜は桂子の前をふわふわと漂いながら振り向いた。 「そう言われるだろうと思っていましたわ、桐生の姫君」 月夜は少し上を向いて、 「神楽笛の言っていたことは本当だと思います。あの方は悪い方ではないでしょう。姫君のことを本当にキツネだと思っておられましたわね。でも、姫君、このままキツネのままを装っていかれるのですか」 と言った。桂子は目を上げて、そして伏せた。 「今はこのままで……いいわ」 「桐生の姫君……」 月夜がその肩に乗って顔を曇らせた。桂子は篠と名乗った男に恋をしかけているのだろうか。桂子がそのような年頃になったことを月夜は喜び、そして反面心配をしていた。はたして、篠は何者なのか。桂子が桐生であることを知らずに会ったはずだが、それを気づいた時、彼はいったいどういう態度を取るのだろうか。神楽笛の精霊は知っていても教える気はないと言った。本人に聞いたところで本当のことを教えてくれるだろうか。 「月夜」 桂子の声に月夜はハッと彼女のほうを見た。桂子はにっこりと笑った。 「月夜、心配しないで。私は大丈夫だから。何があっても大丈夫だから」 「桐生の姫君」 月夜はそっと桂子の髪の毛を撫でた。 「大丈夫よ」 ポツリと呟くように言う桂子であった。
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