宮中、麗景殿。
 麗景殿の主は、麗景殿の女御と呼ばれている左大臣の二の姫であった。
 今夜も、お上の渡りがあって、麗景殿の女御の前には、お上がいた。ただ、いつもと違うのは、女御のほうを見ずに、懐から出した神楽笛をしげしげと見ているのだ。
「お上……どうなさったのです?」
 置き忘れられたような女御は、そう言ってお上の注意を引いた。
「ああ、すまない。あなたを忘れていたわけではない。昨日、鴨川の辺でこれを吹いていたら、キツネの子供が出てきて、話しかけたら逃げてしまった。可愛いキツネの子供だったよ。人間によく化けている」
 女御は脇息にもたれていた体を少し起こした。
「まあ、キツネの子供? そのように上手に化けておりましたか? 私も会ってみたいですわ、お上」
 ゆっくりとした口調で女御は言った。左大臣の二の姫だが、それを驕ったことがない、おっとりとした姫であった。口調もそれに準じているのだ。妍を争う宮中で、近い将来、麗景殿の女御が中宮の座を射止めたことは、他の者をあっと言わせた。確かに父親の身分は高い。だが、それだけで中宮の座を射止めるのは、至難の業だ。女御自身にその争いに打ち勝つだけの何かがなければならない。お上と幼馴染であった、とそれだけが理由ではないということだ。
「篠子、あなたが宮中から出ることが出来ないから、きっと、その子供をここに連れてこよう。楽しみに待っていてくれ」
 この時代、女性が名前で呼ばれることはほとんどない。役職についている者なら、その名前で、あるいは、誰それの娘、妻、母などで呼ばれる。だから、麗景殿の女御も、女御、あるいは、左大臣の二の姫、としか呼ばれないのだ。もちろん、中宮になれば、その名を持つことにはなるが。篠子というのは、お上が子供のころに戯れにつけた名前なのだ。笛を女性は吹かないが、笛の好きなお上が篠笛を教え、かなりの腕前になった麗景殿の女御であった。だから、篠笛から篠をもらい、篠子と呼んでいたのだ。自分の女御の一人になった今では滅多に呼ぶことはないが、こんな二人きりの時には、昔を懐かしむように呼ぶのだった。
「嬉しいですわ、お上。楽しみにしております」
 そう言って、ゆったりと笑う麗景殿の女御であった。


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