「桐生の姫君」
 中納言がいる間は、相手が見えない場所にいた月夜であった。
「姫君……」
 泣きそうな顔をしている桂子を月夜はふわふわと回りを漂いながら心配そうに見つめていた。桂子が目を落とす。
「人、ならぬ、身、の我が身」
「姫君! それは違いますよ」
 桂子が月夜に向かって微笑んだ。
「お前たちが私を信じてくれるだけで、私はいいの。私は、いいの」
 そしてフッと宙を見つめる。桐生の名を継いでしまった、いや、桐生に生まれた時から、桐生という枷を課されているのだ。それを忌むことは今のところない。
 桂子は立ち上がって、月夜に笑いかけた。
「散歩に出掛けましょう」
 そう言って几帳の陰でさっさと動きやすい着物に着替える桂子であった。小柄な桂子は少年のような姿になって表に出た。それはいつものことなので、女房たちの目を盗むのはたやすい。懐の中には月夜の扇子だけを入れて、桂子は鴨川のほうへと歩いていった。
 すでに日は落ち、夜盗の多いこの頃は、こんな時間に外に出る者はほとんどいない。桂子は人影のない通りをすたすたと歩いていた。川のせせらぎが聞こえてきて、ふと、桂子の耳に他の音が聞こえてきた。
「笛の音だわ、月夜。こんなところで誰が吹いているのかしら」
 肩の上にちょこんと座っている月夜は、
「良い音色ですわ。彼女もこれほどの名手の手にあって、喜んでいるようですわね」
 と言った。月夜が彼女と言ったのは、その笛の精霊のことだろう。桂子は笛の音に魅かれるように、そちらへと歩いていった。
 そして木の陰からそっと覗く。ススキの中に溶け込むようにその人はそこにいた。河原にいたのだ。川のほうを向いているので、桂子からは背中しか見えなかった。月夜が桂子の髪をそっと引っ張る。桂子も微笑んだ。その人の側から白いものがふわっと離れると、まっすぐに桂子のほうへと向かってきた。
「桐生の姫君、でございますね」
 彼女はそう言って頭を下げた。月夜よりももっと年上の、肩までの白髪をした老婆であった。
「私は神楽笛の精霊でございます」
 老婆はそう言ってふくよかな笑顔を見せた。
「わざわざ挨拶に来てくれたの? 嬉しいわ。でも、早く側に戻ってあげて」
 神楽笛の精霊はもう一度頭を下げて、そして去ろうとした。
「あ、ちょっと待って。あの方はどなた?」
 神楽笛の精霊は桂子のほうに向き直ると、
「桐生の姫君、それはご自分でお聞きください。姫君にはお判りでしょう。名前を知られるということを、私たちがどれだけ忌んでいるか。ですから、私もあの方がご自分から名乗られないかぎり、誰にもお教えしないことにしているのですわ」
 と言ってすうっと戻っていった。
 桂子は木の陰から出て、そして背中をもたれさせて笛の音を聞いていた。月夜はずっと桂子の肩に座っている。
 やがて笛の音がハタと止まった。フッと桂子がそちらを見ると、視線が合った。桂子より少し年上の男性。身なりは質素だが、そこはかとなく気品が漂っているような気がするのは気のせいだろうか。彼は笛を懐に入れると、桂子のほうへと歩いてきた。
「笛の音に魅かれたのかい」
 桂子はとたんに身を翻した。男はその背を立ち止まって見つめる。
「可愛いキツネの子供だろうか」
 男の呟いた言葉に、側に浮かんでいた神楽笛の精霊はクスリと笑う。そしてその後に、桂子の去ったほうを、首を傾げて見つめるのであった。
 一方、いきなりの桂子の行動に、置き去られそうになった月夜であった。急いで追いついて、
「桐生の姫君、どうされたのです?」
 と聞いた。桂子は屋敷近くになってやっと歩調を緩めた。
「う、ううん、何でもないわ。気にしないで」
 月夜は心配そうに桂子を見つめる。何でもない状態ではない。気にするな、と言うほうがおかしい。だが、月夜は何も言えなかった。桂子がそれを望むのならば、月夜はそれを叶えてあげるのだ。
 そして、いつもならば、屋敷の者に見つかるはずのない桂子は、今日はしっかり見つかってしまって散々に叱られたのであった。


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