「桂子様」
 桂子はハッと目を覚ました。隣にいる女に、
「私はうたた寝をしていたの?」
 と言った。女房の一人である女は頷いて、
「御簾も下げずにうたた寝をなされるとは、高貴な女性がなされることではありません。どこに人の目があるとも限りませんから」
 とするすると御簾を下げた。
「高貴? 私が?」
 桂子は少しだけ笑った。女房は怒ったように桂子の手を取る。
「そのようにご自分を蔑むのはお止めください。桂子様、貴女様は桐生家の主人なのですから」
 桂子は女房に頭を下げて、
「判ったわ」
 と笑った。
「中納言様がお見えでございますが、お会いになりますか」
 女房がそっと耳打ちした。桂子はふうっと溜め息をついた。
「大臣ならば会わぬわけにはいかないわね」
 そう言って桂子は女房に頷いてみせた。女房はすぐに立ち去った。桂子は扇子をするすると拡げた。
「お前も大臣が気に入らないの?」
 桂子が話しかけたのは、扇子に対してであった。
 桐生家はすべての生あるものに対しての守護者であった。いや、それは語弊がある。人間や動物に対しての守護者になったことは決してない。植物やあるいは扇子などの物、それらに必ずいる精霊たちの守護者なのだ。
 精霊と言っても、決まった形を持っているわけではない。彼らは好きに形を変えられて、どれが本当の姿なのか、ということは彼ら自身の秘密なのだ。
 だから、桂子の拡げた扇子の精霊も彼女が人に似せようと思って、桂子によく似た姿をしていた。彼らの名前も秘密であった。桂子も強いて聞くことはしなかった。それが自分たちの守護者であっても、彼らの姿と名前は彼ら自身のものなのだ。
 ただ、この扇子の精霊は桂子に自分の名前だけは教えた。桂子の亡くなった父親から桂子のことを頼まれて、彼女は桂子を自分の娘のように思ったのだ。
「月夜、みながこの力を求めるわ。でも、一握りの権力者のためにこの力を使うわけにはいかないのよね。私を従わせることが出来ないから、婚姻を結ぼうと考えるのは無理もないことね」
 月夜、というのがこの扇子の精霊の名前であった。月夜は小さな体で扇子の上に座っていた。
「桐生の姫君、そんなに哀しい顔をなさらないでください。私たちは姫君が好きですわ。その力が大きいから、と、そんな理由ではありませんよ。ただ、姫君が好きなのです。桐生の代々の当主の方々は、力で私たちを従わせようとなさったことはありません。私たちの守護者である、ただそれだけの理由で、力を持つことになったことを、姫君が忌んでいらっしゃるのなら……」
 ううん、と桂子は首を振った。
「それは……」
 と桂子は御簾の向こう側を向いた。先程の女房に連れられた中納言がやってきたのだ。そして女房は桂子のほうにやってきて、御簾の前に座った。
「桂子様、この前のお返事をいただきに参ったのですが」
 女房が桂子のほうを見る。桂子は扇子を少し拡げた状態で口元に当てた。女房が御簾のほうを向いて、
「この前申し上げた通りに、お断りすると申されております、大臣殿」
 と言った。中納言は薄ら笑いを浮かべたまま、
「私の嫡男のどこが不満と言われるのか、お聞きしたいと思います」
 と言った。女房が桂子のほうを向くと、桂子はふうっと溜め息をついた。そして、女房に向かって、扇子を軽く振った。女房は桂子に頭を下げるとその場から立ち去った。
「藤も橘も、同じことしか言いませんね。それほどに桐生の力を欲しますか?」
 桂子は手ずから御簾をするすると上げて、立ったまま中納言を見下ろしていた。
「それは、誰もが願うもの。桂子様には判っていらっしゃると思いますが」
 桂子はくるりと中納言に背を向けて、先程まで座っていた場所に戻ると、脇息にもたれて扇子をゆっくりと動かした。
「桐生は、一部の権力者のために存在するのではありません。桐生は、ただの彼らの守護者、桐生が力を持っているのではなく、彼らがそう願うだけのこと。桐生がたとえば、そなたに従うと決めても、彼らがそれを承諾しないかぎり、何も起こりはしない。そして、桐生は彼らを従わせているわけではない」
 中納言は薄笑いを浮かべ続けていた。
「身分のない身で、このような暮らしが出来るのは、誰のお陰だと思っていらっしゃるのです」
 言葉は丁寧だが、明らかに蔑むような色を隠そうとはしない中納言であった。桂子は扇子をパタリと畳んで、
「出ていけと言われるのなら、いつでも出ていきましょう。私は別に構いません」
 と言った。
「お上の庇護を下りられると? 桂子様もお上の臣下、そのようなわがままが許されましょうか」
 桂子はこれ以上、中納言とのやり取りと続けたくなかった。
「私どもの申し出を断り続けていらっしゃるのは、お上のご寵愛を待っていらっしゃるのでしょう」
 桂子は中納言の言葉に、眉をひそめた。
「私が?」
 桂子はカラカラと明るく笑った。
「藤の花が咲き誇るのは、娘たちの妍の競いのお陰。確かにそうでございますね。その上にあぐらをかいていらっしゃるわけですね」
「桂子様」
 中納言は立ち上がりながら言った。その無礼さを桂子は気にすることなく、中納言が帰ろうとするのを歓迎した。だが、中納言は吐き捨てるように一言残していくことを忘れなかった。
「人ならぬ身を」
 それは小さな呟きだったが、桂子にははっきりと聞こえた。もちろん、中納言が聞こえるように言ったのだ。中納言はそのままさっさと桂子の前から姿を消す。御簾が、誰が下ろしたとも見えずに、するすると下りた。


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