◆◆
「どうして天神は、僕たちの記憶を消していかなかったのでしょうね」
麻績が言った。
「きっとそれは……」
朝霞の視線が再びカフェテラスに落ちる。
「朝熊のことを忘れて欲しくないと、彼らが願ったからなのかな。そして僕らも」
麻績が頷く。
「朝霞、僕たちは決して朝熊のことを忘れないでしょうね」
「倭姫がいるかぎり」
朝霞がポツリと言った。あの時の記憶をなくしたのは、倭だけであった。戸隠も出雲も《力》をなくしていたが、記憶はなくしていなかった。伊勢のことは調べようもない。倭は伊勢とは無関係になったのだ。つまり、伊勢は倭のことを忘れ、倭も伊勢のことを覚えてはいない。
「ああ、それから、きっと彼らも忘れないでしょう」
と麻績は朝霞に机の上の書類を渡した。朝霞が目を落として、驚いて麻績を見る。
「偶然、と言って欲しいですか。彼らも忘れたくないんですよ。だから、僕たちの元にやってくるんです」
朝霞は書類をパラパラとめくった。
「頓原たち……」
朝霞が呆れたように言う。それは、頓原たちの陬生学園への転入願であった。
「ここは学校だぞ。それを知ってやってくるのか」
麻績が笑う。
「それは知っているでしょう、きっとね。何といっても、ここは陬生学園です。来るものは拒みません。一芸ある者はなおさら、ね。これは初代理事長の決めたこと。受理していただけますか、2代目理事長の陬生朝霞様?」
朝霞がそれに答えかけて、ふと、カフェテリアに目を落とす。その朝霞に向かって、手を振っているのは。
「まだ、受理していないってのに、気が早い奴らだな。麻績、そんなもの捨てちまえ。僕たちにはそんなものは必要ない」
朝霞がそう言いながら、部屋を飛び出していった。麻績がカフェテリアを見て納得した。
「まあ、そうは言ってはおられません。全く、変われませんね、朝霞は。まあ、そこが好きなところなんですけど」
麻績がその顔に嬉しそうな表情を浮かべて言った。そして、朝霞の机の引出しに入れてある理事長のハンコを出すと、転入願に押した。
「これで彼らも陬生学園の学生ですね。きっとますますここも賑やかになるでしょう。きっと倭姫もその中に入ってきますよ、朝熊」
麻績が遠くを見つめてそう呟いた。朝熊がそうだな、という顔をしたような気がしたのは、きっと麻績の希望だったのだろう。だが、麻績の言葉が正しいことは、これから起こる事実だ。倭がもう少し落ち着くと、さっそく弓道を始めることも。そして崇とともに、その名をとどろかすことも、たぶん、きっとそうなのだ。
麻績が再びカフェテリアに目を向ける。倭を囲んで、朝霞が頓原たちを紹介していた。
「初めまして、倭。俺は頓原」
頓原がにっこりと笑って言った。倭がそれに応える。
「初めまして。私は倭です」
倭の屈託のない明るい笑顔が輝く。頓原たちはそれを初めて見るように眩しげに見つめている。首元の透明の勾玉が陽に煌めいた。そしてポニーテールを結んでいる青藍のリボンがふわっと揺れる。形を整えるように。そして、彼らは確信したのだ。朝熊が今でも、倭の側にいると。彼らの心の中が見えたように、青藍のリボンが再び揺れた。
←戻る・後書き→