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「我が神、天照大神」 倭が睨む。普段の倭ならば、決して行わない行為であった。自分たちの神に向かって、それは無謀とも言える態度であった。天照大神がその気になれば、倭は殺されてもしかたないのだ。倭の肩が震えていた。笑っている。声も立てずに。 「朝熊は私が殺したんだ。私がこの手で……」 「倭、それは間違いですよ」 と天照大神が、倭を抱き締める。 「我が神、天照大神、朝熊は知っていたんだ。私が自分を殺すことを。だから、私に何も教えてくれなかったんだ。ずっと、私を守り続けるって約束したのに、朝熊は私を一人にしたんだ。私に自分を殺させて、それで私を一人にして。私は朝熊なしの生活なんて考えられない。なのに、肝心な時に朝熊はいないじゃないか。私は何にも知らなかった。朝熊がいないのに、私は泣き方すら判らないんだ」 倭の瞳は乾いている。泣いたことのない倭は、涙の流し方を知らなかった。哀しいという感情も沸いてこない。それを哀しいということを知らない。 「倭、朝熊は死んでも、あなたを守っていますよ」 天照大神が慰めるように言う。倭が笑った。 「我が神、天照大神。すべては、男神の天照大神が仕組んだこと、と言うことだな。つまり、伊勢の勾玉には何の意味もないわけだ。透明の勾玉の持ち主を探すことも、何の意味もないこと。みんな、騙されて、そして、朝熊がすべてを背負って死んでいったんだ。何もかも終わったんだ。私も朝熊がいなければ意味がない。私には朝熊だけが必要だったんだ。それを、奈半利の器だったから、ってだけで、消滅しなければならないなんて、それは違うよ。朝熊、違うよ。私はもう、伊勢のことなんてどうでもよかったのに。最初は透明の勾玉の持ち主を探すことが、伊勢の行末に大きく影響されるというから、それが私の使命なんだと思っていた。でも、途中からそれはどうでもよかったのに。お前とずっと一緒にいることが、とっても嬉しかった。いつまでも子供扱いされてたけど、私はお前が好きだったんだぞ。私の守り人ってことじゃなくて、一人の異性として。なのに、私に何も言わせずに、すべてを背負って、そんなの、恰好よくない。そんなの、ずるいよ。いつも朝熊はずるいよ。私はずっと、お前と一緒にいたかったのに。お前は私をずっと守ってくれるって約束したのに、その舌の根の渇かないうちにその約束を破るんだ。お前がそんなことをしても、私はお前を……。そして、私はお前なしでは生きられないからね、朝熊」 倭の手をハッと天照大神が止めた。倭の青藍の《気》がナイフに変わっていた。それが倭の胸に刺さる寸前で止まっていた。 「我が神、天照大神。止めないでください」 笑って倭は言った。天照大神は首を振る。 「それは出来ません。私は朝熊に頼まれましたから。みんなに朝熊は頼んでいたのですよ、あなたのことを」 天照大神が倭の額の勾玉に触れた。その指に倭の勾玉が掴まれ、倭の瞼が閉じた。そして、天照大神は倭の耳たぶのピアスも外した。三つの勾玉を右手の上に置いて、 「お前たちも、もう何の心配もしなくていいのですよ。ごくろうさまでした」 と言った。天照大神の手の上で、後月と流水とそして、安芸の姿が浮かんで消えた。その手の上には勾玉はなかった。 天照大神はみんなを見渡す。 「倭の記憶は、私が頂いていきます。伊勢も倭のことを忘れ、倭も伊勢のことを忘れるでしょう。朝熊の記憶を倭から抜くことを、あなた方は反対ですか」 天照大神の質問に誰も何も答えられなかった。朝熊のことを倭が思い出すことがないのだ。でも、それをなくさないと、倭は朝熊を追って死んでしまうだろう。それは事実であった。だけど、誰も何も言うことが出来ない。朝熊がどれだけ倭のことを大事にしていたか、それは認めざるを得ない真実だったから。 「私たちには時間を戻すことは出来ません。死んだ人を生き返らすことも。私たちの存在はつまるところ、地上では実体のないモノでなければならないのですから。単なる幻想的な存在に戻らなければなりません。私たちは地上から消えましょう。ここにいること自体が、すべて間違いなのですから。私たちは、大国主尊も含めて消えます。私たちは地上のことに干渉することは出来ません。ですが、あなた方がそれを望むのなら、あなた方の《力》を消していきましょう。その《力》は男神の天照大神が与えたもの。それを消すことは干渉には当たらないから。元々、それはあなた方には備わっていない《力》なのですから。でも、あなた方がそれに執着する、と言うのならば、私たちはこのまま、あなた方の《力》を消さないまま消えましょう」 「それは、もし、私が望めば、出雲の一族すべてに対して有効だと言うことか」 宍道が言った。天照大神が頷いた。 「ええ、宍道、あなたは出雲の王であり、代表者です。あなたがそう望めば、出雲の一族すべての《力》を消しましょう」 宍道は頓原のほうを向いた。 「頓原、お前はどう思う?」 頓原がニッと笑った。 「宍道、俺はお前を信じているさ。言ったろ、俺は、たとえ世界中がお前を敵と見なしても、俺だけはお前の味方だと」 「これが、出雲の答だ」 天照大神は頷いて、 「では、戸隠はどうですか」 と朝霞のほうを向いた。朝霞は克雅の言葉を思い出す。そしていつも隣にいると信じている彼の姿を思い浮かべる。 (日影、お前に育てられた僕だから、そして克雅様、あなたにいろんなことを教えてもらった僕だから……) 最初からこんな《力》がなければ、いくつもの心の傷は生まれなかった。だけど、この《力》があったからこそ、いくつもの出会いがあった。今、朝霞が選ぶのは、過去を引きずることではないのだ。 「戸隠も《力》を消してください。麻績、お前もそう願うだろ」 朝霞の言葉に、麻績は頷いた。 「判りました」 と天照大神が言う。 「伊勢はどうするんです?」 と朝霞が問うた。天照大神は、 「伊勢のことは、伊勢に。それは私が責任を持っていたしましょう。伊勢がどのような道をたどろうとも、倭は伊勢とは無関係にします。あなた方に託します。朝霞、頓原、そして、私を守ってくれていた崇、遙、倭をお願いしますね。それが、朝熊の思いですから」 と言った。そして、天照大神は朝熊の勾玉をネックレスに変えて倭の首にかけた。勾玉には意味はない。ただその勾玉を、朝熊が生涯身につけていたという以外には。そしてそれが、倭にとって気づかなくとも大切なことだということを。 『私に何かあったら、倭を頼む』 朝霞と頓原はそれを思い出していた。朝熊には今のことが判っていたのだろうか。その真実は判らない。だけどきっと誰もが判っているのだ。 天照大神と天手力雄尊がお互いを見つめて頷いた。彼らの記憶にあるのは、そこまでであった。 気がつくと場所が違う。樹齢の長いイチョウとケヤキが目の前で生い茂っていた。二人の天神の姿はなく、代わって、船通と八雲が側にいたのだった。
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