紫紺の結界は、一瞬にして消え去った。朝熊の目に倭が自分を誇らしげに見ているのが映る。倭は微塵も朝熊の敗北を考えたりしなかっただろう。
「倭」
 と朝熊は倭を見つめる。その目の端に一つの人影を映したままで。
「これは……」
 一つの叫び声が聞こえてきて、一斉にそちらに視線が集中する。誰がそれを発したか、朝熊はそちらを見ることなく、口元を緩めた。
「倭、約束だ」
 え、と倭が彼のほうを向く。朝熊のほうを。
「約束だったな。私が使え、と言う時に、必ず使うと」
 倭はうん、と頷いた。確かにそう約束した。それが今なのか。奈半利に対して、使えと言うのか。
「お前が奈半利を消滅させるんだ。お前にしか出来ない。私が奈半利を足止めするから、倭は奈半利に向かって撃て。さあ、この紙を見て」
 と朝熊は倭に一枚の紙を渡した。
「最後まで、お前にこれを教えることがないことを祈っていたよ、倭。お前が使える最大の技を。私が、お前の守り人として、唯一出来ないことがあることが哀しい。お前に今回は頼らざるを得ないことをね。お前は怒るかもしれないけど」
 朝熊がギュッと倭を抱き締めた。その暖かさに倭はホッとしていた。そして、朝熊に初めて抱かれたということにも、この時は気づかなかった。
 朝熊が倭から離れる。
「朝熊、そんなことを言われると、別れみたいじゃないか。朝熊らしくないぞ」
 倭が笑う。朝熊がにっこりと笑った。
「倭、私はお前の守り人だよ。お前がこの世にいるかぎり。それがどんな形であれ……」
「うん、判ってる」
 朝熊は再び優しく笑った。
「倭、右手の人指し指と中指を立てて、他は握って、それをそのまま、額の勾玉につける。そして、勾玉に意識を集中して、うん、そうだ」
 朝熊は倭を優しく見守っていた。二人の行動を注意して見ていた者はいなかった。いや、頓原を除いては。彼は、一番二人の近くにいたのだ。何か、不安であった。二人は何をしようとしているのか。ふと、頓原は自分の手のひらを見る。大国主尊は自分を器だと言っていた。確かに大国主尊は頓原の中へと入っていった。だが、外見も頓原の意識も、変わったところはない。そして、朝霞がふと朝熊のほうを向いた。そして、頓原と目が合う。かち合った二人の視線が絡み合う。
 朝熊は倭に紙を広げるようにと言った。倭がそれを広げる。
「一度読むと、それは消える。覚え込むようにそれを読むんだ、倭。ゆっくりと、はっきりと。言魂が後はお前を導いてくれる」
 倭が目を上げる。それに朝熊は優しく笑いかけた。倭は真剣な表情で紙に目を戻す。
「我らが母なる」
 と倭が言い始めた。それを確認して、朝熊は倭の側を離れる。倭は真剣に紙の上の文字を追っていた。だから、朝熊が離れてどこに向かっているのか知らない。それを知ってハッとしたのは、頓原と朝霞であった。
「まさか」
 と頓原と朝霞は呟いた。
「天照大神の使徒の一人として」
 倭の声に熱が帯びてきた。言魂が倭を支えているのだ。朝熊はまっすぐに奈半利に向かっていた。奈半利はさきほどの大国主尊と同じような状態であった。ただ薄れていくのではなく、苦しみながら薄れていた。
「朝熊、お前は私の器だ」
 と言いながら、奈半利が近づく。
「そう、私はお前の器」
 朝熊が呟く。二人はすぐ側まで近づいた。
「この世の闇に光を与えん」
 倭の額の勾玉が眩いばかりの光を発し始めた。
「我が神、天照大神。あなたは光。すべてを思い出した今からは、あなたが導いてください。倭を私の代わりにお守りください。私が彼を連れていきます。天照大神はただ一人。そして、あなたでなければならないのです」
 朝熊が天照大神のほうを向いて、そう言った。
「朝熊、それをするのは、私の役目です」
 天照大神が叫ぶ。朝熊がゆっくりと首を振った。そして額の勾玉を外すと、天照大神に向かって放った。
「それは、あなたにはさせません。あなたは、白くなければならないのですから。その手を染めることは許されないこと。手を汚すのは、私だけで充分だった…。だが……。あなたの役目はこの後始末。私のたった一つの願いを叶えてください。倭の幸せを……」
 そう言って、朝熊が奈半利の腕を掴んだ。
「奈半利、逃がしはしない。お前はここで消滅するのだ。私を器に選んだことが、そもそもの間違い。その間違いを今、正してやろう。そして奈半利、私から抜け出したことがお前の最大のミス。お前は自分で自分の首を絞めてしまったのだ」
 奈半利はハッと気づいて逃げだそうとした。
「逃げても無駄だ。倭の《力》から逃れることは出来ない」
「晧」
 倭が短く言う。
「朝熊」
 頓原と朝霞が倭のほうへ近づこうとした。止めなければ、二人の思いはそれであった。二人には、もう何が起こるのか判っていた。
「頓原、朝霞」
 静かに朝熊が二人に呼び掛ける。その笑顔が信じられない。二人は朝熊を無視して、倭に近づいた。二人は以前、朝熊から聞いた言葉を恐怖を持って思い出していた。
『私を殺せるのは、倭だけだ』
 朝熊はそれを実現させようとしているのだ。朝熊は確信していた。倭は約束を守るだろうと。決して自分を裏切るようなことはしないのだ。そして、それに気づいた時始めて、倭は朝熊を見限るだろう。それでいいのだ。それが一番いいのだ。
 倭の左手が頭上高く掲げられた。青藍の《気》がその左手に弓を作っていた。右手が弦を持つ。倭はゆっくりと弓を引き絞った。それにつれて、倭の青藍の《気》がますます高まる。彼女の《気》が最高に高まった時、朝熊が叫んだ。
「倭、今だ」
 倭の目が朝熊のほうを向く。だが、それを朝熊と確認することは出来なかった。
「滅」
 倭の最後の言葉が口から零れる。青藍の《気》の矢が、一直線に奈半利に向かう。それを掴まえている朝熊にも……。《気》を発した後に、チラリと映る。それは夢だと思っていた。自分が朝熊を攻撃したなど……。
(倭、お前は本当に私の誇りだよ)
 朝熊が微笑みながら呟いた。
 倭から放たれた眩い光は辺り一面を覆い尽くした。そこにいた者は例外なく、それに巻き込まれていった。
「これは、強過ぎる。みな、巻き込まれるぞ」
 誰がそれを言ったのだろう。その時、薄鈍色の光がそれに混ざった。そして、やがて霧が晴れていくように景色が戻り、校庭に昼間の日差しが射していた。


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