うっすらと靄がかかっているようであった。足元も乳白色の靄のようなものが立ち込めている。
「やっと、目覚めてくれたのですね」
「私を呼んでいたのは、あなただったのですか」
「そこにいるのは、誰です。私は天照大神。天手力雄尊か」
「私は天手力雄尊。そして、彼も天照大神」
 三人の神々がそこに揃っていた。あろうことか、天照大神が二人も。男神と女神と。
 フッと一人が息を落とした。
「忘れていましたよ。ずっと、長い間。そう、私たちが彼らに少しだけ《力》を与えてから。私はあなたで、あなたは私だったことを」
 女神の天照大神が男神の天照大神に向かって言った。
「私たちは一つだったのですね。それがいつの間にか二つに分かれ、あなたが私に取って代わったのです」
 男神の天照大神が言う。
「天神の私たちが彼らに《力》を与えたのが、そもそもの間違いでしょう」
 女神の天照大神が言う。それに対して天手力雄尊が首を振った。
「いや、それは違う。国神の大国主尊がすべて悪いのだ。彼が我ら天神に無断で出雲の王祖に《力》を与えた。それがそもそもの間違い。すべての種は彼が蒔いたもの。あなたが責任を感じることはありません」
 そう言えば、ここには大国主尊の姿はなかった。ここは天神だけが存在出来る場所。
「神室のお陰で我らが実体化したのでしたね。彼がいないと、精神体だけしか現れないところでした。神室は神の室。だが、その代償は彼には大き過ぎたでしょう。はたして無事にいられるか。可哀そうなことをしましたね」
 と、天手力雄尊がさらに付け加えた。
 遙が崇に触れた途端、彼らの時間は止まっていた。その狭間に神々は存在している。
「私たちをここに呼んだのはあなたでしたね、私自身である天照大神。その理由を聞かせていただきましょう」
 女神の天照大神が言った。天手力雄尊の視線も男神の天照大神に集まる。
「忘れられていたあなたが、今、名乗っている名は奈半利でしたね。思い出しました」
 女神の天照大神が言う。天手力雄尊も頷いた。
「あなたは奈半利自身。奈半利を作ったのもあなた自身。そして、伊勢に勾玉を作ったのも、あなた自身。私はあなたですけど、あなたは私ではありません。私にすべてを話していただけませんか」
 男神の天照大神(奈半利)は真白いローブの袖を振った。そこに三脚の椅子が現れる。
「座りませんか。長い話になるかもしれません」
 そう言って奈半利は先に座った。他の二人もそれにならう。
「そう、女神の天照大神の言ったことはすべて真実です。私は奈半利自身。彼らを出雲から離反させたのも私自身。大国主尊に罰を与えるつもりだったのです。だが、大国主尊は見て見ぬふりをしました。我らが伊勢と戸隠に《力》を与えたのは、出雲を見張るためでした。覚えていますか。しかし、彼らは我らの思うようには動かない。だから、伊勢に勾玉を作ったのです。普通の勾玉は実は意味はない。肝心なのは、透明と漆黒の勾玉です。そう、現世の布城崇に宿った透明の勾玉と、柚木野遙に宿った漆黒の勾玉が、私の切り札です。二つに正反対の《力》に分けたのは、彼らに課せられた《力》が重過ぎるから。それを重荷にならないように、二つに分けたのです。彼らは私たちの《力》をそのまま持っているのですから」
 奈半利はそう言って、少しの間口を噤んだ。他の二人は口を挟まない。
「少し話をはしょりすぎましたか。伊勢では、透明の勾玉の持ち主は天照大神の意志を持つ者、そう信じられています。そして、何人かの透明の勾玉の持ち主、と言われている人が現れています。ですが、本当に透明の勾玉の持ち主が現れたのは、今度が初めてなのです。私がそれを望んだから、布城崇に透明の勾玉を宿らせた。そして、柚木野遙に漆黒の勾玉を宿らせたのです。つまり、天照大神、あなた自身を、彼らに宿らせていたのです。覚えていますか」
 天照大神が頷いた。
「そして、天手力雄尊、あなたは朝霞の中に。崇に会った朝霞が変化していったのは、二人の中のあなた方が共鳴したからです」
「すると、奈半利、あなたはどこにいたのですか」
 天手力雄尊が聞く。奈半利は笑った。
「あなたの思っている通りですよ、天手力雄尊」
 奈半利の言葉に天手力雄尊は頷いた。
「奈半利の血を引いている朝熊の中に?」
「ええ、私は朝熊の中に存在していました。ずっと最初から、奈半利が存在してからずっと。私は朝熊の中に、そして、安芸の中に」
「安芸の中にも? 安芸にも奈半利の血が流れていたのですか」
 驚いた表情で天照大神が奈半利を見た。
「いいえ。ただ、安芸は私たちに近い存在でした。だから、私は奈半利とは関係のない安芸に自然と引かれたのです。それが、間違いだったのかもしれません」
 奈半利はフッと笑った。
「人間たちに私たちを理解しろと言うほうが、間違いだったのですね。勝手に与えた《力》を、彼らは使いこなせなかった。それを責めるほうが間違いです。責められなければならないのは、私たち。大国主尊を罰せなかった私たち。出雲を監視させるための伊勢や戸隠を作るのではなく、慈悲など出さずに、出雲を始末しておけばよかったのです。人間たちはそのまま、出来る範囲の中で暮らしていったでしょう」
「あなたは何をしたいのですか」
 天照大神が言う。その答は判っているのだ。みんな、三人とも。
「すべてを終えましょう。それで彼らに《力》などなくなり、王国などなくなり、すべて元の鞘に戻るのです。大国主尊の罰は我らに同席させないことで許すとしましょう。永遠に、彼は我らとは同席出来ないのです」
「そうですね」
「そうですね」
 天照大神も天手力雄尊も頷いた。すべてを無に返そう。自分たちがそれをする前に。

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