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ふと、違和感を感じたのは、天岩戸神社に向かっている途中。朝熊と倭は顔を見合わせた。
「正解」
朝熊が短く呟く。ついに、奈半利の王国の中に入ったのだ。微妙なところだった。結界は強過ぎても弱過ぎても判らない。その僅かな差で結界があると判るのだ。
「倭、ここは奈半利の王国の中だ。土地が奈半利に味方している。気をつけろ」
倭は頷いた。途端に地面の照り返しが強くなり、気温が上昇する。二人は汗まみれになった。拭いても拭いても汗は止めどなく流れる。その危険性に朝熊が気づいた。
「倭、川に下りるぞ。このままでは脱水症状を起こす」
倭は朝熊に続いて川辺に下りた。朝熊が油断なく辺りを見渡す。これは罠ではないか。川辺に下りるのは必然なのだ。
「待っていましたよ、朝熊」
いつの間に現れたのか、川の中の石の上に双海が立っていた。一人であった。室戸を連れていくように、との物部の言葉を聞いておいて、双海は室戸を八坂たちのほうへ行かせた。あちらには頓原がいる。八坂と八浜だけでは心もとないではないか。室戸も命令違反を承知の上で、八坂たちのほうに行った。
「お互いに、傷は完治しているようですね。そうでなければなりません。私はハンデを好みませんから。ただし、朝熊一人だけでしたらね。倭、あなたは邪魔です」
倭がハッとした。彼女の腕を子供が掴んでいる。麦わら帽子を被って、もう一つの手には虫取り用の網を持っている。倭の左腕を掴んでいる子供は、籠を持っていた。
「私が負けたら、子供たちは正気に戻りますよ、朝熊。言っておきますが、彼らは普通の人間ですからね」
双海が妖しく笑った。倭は子供たちに引っ張られるように、朝熊から離れた。子供とも思えない力で、倭はそれを振り解くことも出来ない。何といっても、彼らは普通の人間なのだ。ただ、双海に操られているだけである。そうか、操られている、と気づいて、倭は懐の札を取ろうとする。だが、子供の一人が無造作にそれを破り捨てた。
「あ、言っておきますが、同じ手に二度も引っ掛かりませんよ、私は。倭、私が朝熊を始末してから、お相手をしてあげますから、それまで静かに見ておくことですね」
「朝熊」
と言おうとして、倭の声が出なかった。静かに、は言っただけではないのだ。倭が双海を睨みつける。双海はもう、倭のほうを見ようとはしなかった。
「朝熊、今日は何も楯にしませんよ。昨日のような無様なことは、二度とないのですからね」
双海の回りの水が伸び上がって、何匹もの蛇に変わる。双海自身は深緋の靄に包まれている。朝熊の紫紺の靄が倭を残して双海とも包み込む。朝熊が結界の外に倭を出したのだ。倭には姿が見える。だが、それだけだ。何の音も聞こえない。ギュッと掴まれた腕が痛かった。
「結界ですか」
双海が不思議そうな顔をする。結界を作っても、双海を閉じ込めるのではなく、朝熊も入っている。結界を作ることでそれだけ《力》を消耗するのに、それをする意味があるのか。双海はそう思って不思議そうに朝熊を見た。だが、それだけであった。双海の回りの蛇たちが鎌首をもたげて朝熊に向かってくる。お互いはぶつかってもすり抜けるが、朝熊に当たったものは、鋭い刃物であった。朝熊の防御の結界はそれほど強固ではない。
「双海、私は負けることはない」
朝熊の額の勾玉が透明度を増していく。朝熊の右手の人指し指がそれに触れた。
「朝熊、布城崇が殺されてもいいんですか」
双海が冷たくそう言い放つ。朝熊の動きが止まった。
「私を殺してしまうと、布城崇も死にますよ」
朝熊が手を下ろした。
「それが切り札か、お前の」
朝熊がニッと笑う。その右手に紫紺の剣があった。双海は自分は殺されるはずはないと思っていた。伊勢にとって、布城崇は他の一族にとってより大切なはずだ。朝熊が地を蹴る。跳んで双海の側に行く。そしてその腹を深く突き刺した。
「殺しはしないよ、双海。それが本当だとは思わないけど、布城崇を殺させるつもりはないからね。だけど、無事にはすまさない。私は二度と負けない。倭のために」
双海は歪んだ笑いを浮かべた。それも妖艶に美しい。
「おあいこですね、朝熊。倭の身柄は預かりますよ。言っておきませんでしたか。私の人形たちは性能がいいと。そして、私が殺されても、最初の命令通りに動き続けます。死んでさえもね」
朝熊がハッとして、後ろを振り返る。倭の姿は消えていた。
「双海、お前は」
朝熊の紫紺の剣が瞬時に消えた。双海は傷を押さえて、
「どうします。倭を見殺しにしますか。それでも私は構いませんよ。あなたが私たちに手を貸す、と言うのなら、倭だけは奈半利から出して差し上げましょう。私はあなたが他人とは思えないのです。どこかで会った気がして、だから、あなたと味方でいたいのです。いえ、あなたは奈半利にとって必要だと思うのです」
と言った。
「はっ」
と朝熊は笑った。
「何を馬鹿なことを」
表面上は笑っているが、倭を連れ去られたのは痛かった。朝熊にとって、崇などどうでもよかった。倭さえ守ることが出来たら。だが、自分はそれさえ出来ていないのだ。
「朝熊、倭を殺してもいいんですね。それがあなたに出来れば、そんなに心配することはないでしょうに」
双海が冷たく笑った。朝熊は黙って双海を見つめる。どうやったら、倭を自由に出来るだろうか。朝熊の求めることは、それであった。倭を自由に出来るのならば、自分はどうなっても構わない。
「双海」
朝熊が苦しげに言う。
「私が奈半利に味方すると、倭は絶対に助けてくれるのだな」
双海が妖艶に笑う。
「信じてください。私はあなたには嘘をつきたくありません」
双海の言葉は信じられるのであろうか。朝熊は信じていない。双海も朝熊を信じていない。それはお互い様であった。信じていない同士、信じていると言わなければならない二人であった。
「妥協ですね」
二人の心を言い表すかのように双海が呟く。
「一つ、聞こう」
朝熊が言う。双海が何か、という顔になる。
「私を味方につけて、何をさせたい?」
双海がクスリと笑う。
「明日、布城崇が柚木野遙に会ってからのことですね。きっと一同に揃いますよ。全キャストがね。その時に、始末していただきましょうか。かつての仲間たちを」
「それが済めば倭を解放する、ということか? 双海、倭を解放するのは、一同に会した時だ。それを確認してからなら、その条件を飲む」
朝熊の言葉に、双海は考え込んだ。その言葉の裏に何も隠されていないのだろうか。大丈夫だろう、と双海の勘が言っていた。
「いいでしょう、朝熊。それまでは、倭は私たちの人質です。あなたも同様、ですけどね。奈半利へご案内しましょう」
双海の顔色は悪い。急所を外されているとはいえ、朝熊に刺された傷は深いのだ。その点でも早く双海は奈半利に戻らなければならなかったのだ。それなのに、これほど長い時間朝熊と話していたというのは、どうしても二人きりで朝熊と話したかったからだ。奈半利に連れていくと、物部なしでは話すことが出来ない。
「倭は、あなたにとって何です? 何故、それほどまでに大切にしているのですか。それは倭を愛しているということですか」
双海が本気で不思議そうに言った。朝熊はぽつりと答える。
「私は倭の守り人だからだ。他の意味は全くない」
朝熊の答は双海には理解出来ない。だが、それ以上聞こうとはしなかった。
「倭と布城崇の居場所は教えません。何があるか判りませんからね。探っても無駄ですよ。少しでも探る気配を感じたら、二人は即、始末します。はったりではありませんから。信用していないのは、お互い様ですからね」
双海はそう言って、朝熊を一軒の家に案内する。
「どうぞ、中のものを自由に使われて結構です。ただし、家の外には出ないほうがよろしいかと思いますよ。これは忠告です」
そう言って双海は朝熊を促した。朝熊は素直に家の中に入る。双海はそれを確認して、その場を立ち去った。
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