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「朝熊!」
薄目を開いた朝熊の顔を覗き込むようにして、倭がいた。朝熊は現と夢の判断がつかなかった。
「倭、すまない」
朝熊が謝ったのは、夢の中の倭に対して。だが謝られたのは、現の倭であった。
「朝熊、謝る暇があったら、傷を直すことに専念するんだな。それに、私はお前に謝られるようなことをされてないぞ」
倭の声に、今度は本当に朝熊は目が覚めた。
「倭?」
「そうだ」
ムスッとした顔の倭がそこにいた。哀しかったけれども、今まで泣いたことのない倭は、涙の流し方を知らなかった。伊勢には癒しの《力》がない。倭には朝熊の傷を直す術がなかった。だから、自分の《気》に包んで見守ることしか出来なかった。
「倭、車がこちらに向かってくる」
朝熊が半身を起こして言った。倭もそれに気づいていた。新たな敵だろうか。朝熊にはまだ《力》が戻っていないし、今度こそ、倭の《力》を使わなければならないのだろうか。朝熊はそれを恐れた。
「朝熊、今度は止めないだろう」
倭が嬉しそうに言う。自分の《力》が試せるのが嬉しかった。だが、朝熊は首を振った。
「何故?」
倭は朝熊の答が気に入らない。朝熊が倭の怒りを抑えるように、彼女の頭に手を置いた。
「味方だ」
倭は車のほうを見て眉をひそめる。そう言われたが、倭は朝熊をかばうようにして向かってくる車を見つめていた。
やってきた車は、二人の側に止まった。濃紺のRV4であった。ゆっくりと立ち上がる朝熊を、倭は一緒に立ち上がりながら支えた。車から下りてきたのは、もちろん、戸隠と出雲の王のグループであった。
「結界を張らずに《気》の放出をしたから、見つけることが出来た」
最初に口を開いたのは、克雅であった。朝熊が直接会うのはこれで二度目。だから、朝熊は相手を見覚えていた。他の三人は全く見覚えがなかったが。克雅が朝熊に近づこうとすると、倭が慌てて朝熊の前に立つ。克雅が立ち止まって倭を見つめた。
「倭、戸隠の王だ」
朝熊が短く倭に言う。倭が態度はそのままで、克雅を見つめた。
「行縢神社に戻ったほうがいいな。その傷を癒さねばなるまい」
自己紹介もないまま、宍道が言う。克雅が頷いて、みんなはRV4の住人になった。四人乗りに大人六人は無謀だが、この際しかたがない。倭は彼らが誰なのか知らされないまま、朝熊に付き添うしかなかった。
朝熊と倭は、克雅、神室、宍道、三刀屋と合流して、行縢神社に入った。朝熊の意識はまた混濁していた。
「三刀屋、羽衣を呼ぶしかないな」
宍道の言葉に三刀屋が頷きかけたが、
「しかし、いったいどうなさいますか。私が飛べればよろしいのですが、それは、私には出来ない相談です。宍道様が羽衣を迎えにいったとして、それでは、宍道様の《力》が消耗し過ぎます。私は反対です」
と言った。宍道はうむ、と考え込んだ。倭はその様子をジッと見ている。宍道はよし、と呟いて、朝熊の手を握った。
「宍道様!」
三刀屋が顔色を変えて、宍道の腕を掴もうとした。しかし、その手に宍道は捕まらなかった。刈安の靄が宍道と朝熊を包み、それが消え去った時、そこには何もなかった。三刀屋も呆然としていたが、倭もそれと同じだった。
「朝熊……」
倭は克雅に詰め寄った。
「朝熊をどこに連れていった。自己紹介もなしに勝手に事を進めて、朝熊はどこに消えたんだよ」
克雅は倭の肩に手を置いた。
「お前が伊勢の倭だね。確かに勝手なことをしたかもしれないが、朝熊のことを考えると、時間が惜しかったんじゃよ。それは判ってもらえると思うがな」
倭の瞳から怒りが少し退いた。
「確かに自己紹介もなしというのは、無礼だったな。ま、お互いに」
克雅が倭から離れた。
「わしは戸隠の王、克雅。これは、一族の神室。朝熊を連れていったのは、出雲の王、宍道。そして、彼は出雲の一族の三刀屋だ」
倭が目を見張った。戸隠と出雲の王が、奈半利に向かおうとしているのか。
「私は伊勢の倭。怪我をしていたのは、朝熊だ」
フッと倭は息を落として言った。
「では、戸隠の王、出雲の王は、朝熊をどこへ連れていったんだ」
「それについては、彼のほうが事情を判っていると思うな」
と克雅は三刀屋のほうに顎をしゃくった。
「三刀屋?」
三刀屋は唇を噛み締めて、倭を睨んでいた。倭はその視線に少しひるんだ。
「出雲には、癒しの《力》を持つ者がいる。五真将の八雲もその一人だが、私の姉の羽衣も癒しの《力》を持っているのだ。宍道様は朝熊を連れて、羽衣の元に行ったのだ」
どう考えても、好意的とは正反対の態度で三刀屋は言った。
「すぐに戻るはずだ。朝熊の傷を直して」
ぶっきらぼうに三刀屋は言うと、みんなから離れて石段に座った。
「と言うことみたいだな、倭。まあ、すぐに戻ってこよう」
克雅がポン、と倭の肩を叩く。倭には三刀屋が何故、自分を敵視しているのか判らなかった。私が何をしたと言うのだ。
「倭、出雲の王は己の《力》を削っているということだ。三刀屋はそれを言っているのだ」
倭の心の中の問いに答えるように、克雅が低く言った。倭がハッと三刀屋の背中を凝視する。宍道は朝熊のために、自分の《力》を消耗するのだ。出雲の一族でもない、朝熊のために。倭は三刀屋の背中を見つめたまま、だが、何も言わなかった。彼に何を言えばいいのか。それを三刀屋は望んでいないのだ。倭は待つしかなかった。朝熊たちが帰ってくるのを。その間が倭にとって、ほんの一時の休憩なのだ。
宍道の結界で仕切られた行縢神社は、倭にとって心地よかった。静寂、という言葉が、本当にふさわしい場所であった。さわさわと木々の葉擦れが響き、倭は瞼が閉じるのを止められなかった。倭が木にもたれかかって眠り込んでいるのに気づいて、神室がそっと上着をかけた。克雅がその側に立って、
「ずっと、緊張し続けていたのだろうな。この小さな体で。これが、終わりではない。これから始まるのだ。だから、今はゆっくり眠らせてやりたいな」
と神室にだけ聞こえる小さな声で言った。神室が倭を見つめる。まだ十代の少女であった。神室には何が起こっているのかが判らないが、だが、それは彼女が支えられるほどに軽いものではないだろう。それを神室は感じていた。たぶん、朝霞たちにとっても。
「神室」
倭が起きないように、克雅はささやいた。神室が克雅のほうを向く。
「それは、お前にも言えることだな。後戻り出来ないところまでこさせて、もう、後戻りは出来ないぞ、と言わなければならないのだからな」
神室が克雅を見つめて、そして、首を振る。
「最初から判っていましたよ、克雅様。克雅様と出会った時に、私の道が一つの方向に向いたことを。私は戸隠の一族ですから」
克雅は神室のその言葉に、目を逸らした。神室の視線の届かないところで、克雅は表情を変えた。哀しみ、いや、苦しみに。再び克雅の脳裏に一人の青年の姿が浮かぶ。彼も自分の意志とは関わらず、戸隠の枷から逃れることなく、生涯を終えた。いったい克雅は何が出来るのか。王国とは言えない王国を守り、一族の末裔たちを守ることが、王の末裔である自分の使命なのか。
『上に立つ者として選択を間違えないでくださいね』
青年の声が克雅の心の中に響いていた。
突然に、さきほど宍道たちが消えたところに刈安の球体が発生する。倭がそれに気づいて目を覚ました。自分の上に掛けられている上着を不思議そうに見て、隣にいる神室に返した。神室が掛けてくれたと判ったわけではないが、そうするのが自然だったのだ。
刈安の球体が消えていく。そこに、朝熊と宍道の二人が現れた。
「朝熊」
と倭が朝熊に駆け寄る。少し顔色が悪いが、朝熊の《力》がかなり取り戻せていることに倭は気づいた。
「出雲の王、私からも礼を言います」
倭が深く頭を下げた。宍道がそれを見つめている。三刀屋が宍道の側に寄った。
「私は当たり前のことをしたまで」
宍道はそう答えて、朝熊から手を離した。朝熊は倭の元に、宍道は三刀屋の元に寄った。
「八雲ならば完全に直せるのだが、五真将は別行動を取っている。すまないな」
と宍道。朝熊が慌てて、首を振った。
「そこまでしていただかなくても構いません。あとは私自身で」
宍道は少し笑って近くの木にもたれ掛かった。
「とりあえず、みなの状態から見て、朝までここにいたほうがいいみたいだな」
それはみんな、同意見であった。
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