そして、奈半利の王国。
 物部の隣にいるのは、双海であった。他の者は出払っているので、そうなるのであった。双海は前髪をつまんでもてあそんでいたが、ふと顔を上げた。
「物部様、どうなさいますか」
 物部が双海を注視する。双海が言っているのは、伊勢でも出雲でも戸隠でもなかった。同じ奈半利の、御荘と松前のことであった。朝霞たちと同じ飛行機で宮崎に着いた御荘たちであった。そのまま奈半利に向かって帰ってきているのである。
「ふむ」
 と物部は唸った。頓原を逃がした罪を遙を奪取することで帳消しにしようと思っていたのだが、それをする前に帰ろうとしている。これは命令違反だ。とはいえ、遙が遅くとも火曜日には、高千穂に入るのはまず間違いないらしい。そう考えると命令通り、ということにもなる。
「お前はどう考える?」
 物部は双海の意見を聞きたかった。双海が口の端を歪める。その動作でさえ艶やかだ。
「命令違反は確実です。頓原を逃がしたことも、柚木野遙を奪取出来なかったことも、彼らは罪を贖わなければなりません。そうではありませんか、物部様」
 冷やかな口調で双海は言う。物部は双海がそう言うだろうことを判っていながら、心の中を寒くした。さらに双海は付け加えた。
「松前に対しては厳罰を処するべきです。おそらく頓原を逃がしてしまったのは、松前のせいでしょうからね」
 物部はそう冷淡に言い切る双海を、感情を現さずに見つめていた。感情を表に出すことは決して出来ない。双海に対して、恐怖を感じているなど。
「そうだな」
 物部は短く答えた。双海の言うことはもっともなことだ。物部は奈半利の王として、彼らを処罰しなければならない。物部が右手をすうっと動かして、六つの紅の球体を浮かべさせた。
 出雲五真将、克雅たち、倭と朝熊、朝霞たち、御荘たち、最後に崇を乗せた車。遠くにあるものはまだ朧気な姿しか映さなかった。一番はっきりしているのが、克雅たちであった。行縢神社から出てきた彼らは、奈半利の目に映るようになったのだ。
 物部と双海がそれぞれに、六つの球体を見つめていた。
「物部様、御荘たちを出雲五真将に会わせたらいかがですか。そこで罪を贖ってもらうのです」
 双海がふと思いついたように物部に言った。物部が双海を見つめる。
「あの二人ならば、すぐに呼ぶことが出来ます。出雲五真将は、徒歩でこちらに入るようですから、我らが手を出すよりも、御荘たちに任せたらどうですか」
 物部はふむ、と考え込んだ。双海は物部から目を逸らして目を閉じた。
(次点でいた物部様のほうが、王となってからの物部様より決断力があったな。やはり、守りと攻めの違いか)
 双海はそう思って心の中で舌打ちをした。だが、決定権は物部にあるのだ。奈半利において、今一番《力》を持っているのは、物部なのだから。自分はせいぜい物部を焚きつけることぐらいしか出来ないのだ。それが双海には悔しい。でも焦ることはないのだ。
 目を開けた双海の視界に、六つの球体のうちの一つが目に入った。二人の人物がそこに映っている。双海はその内の一人が何故か気になった。
「双海」
 物部が長い沈黙を破った。双海が物部のほうを向く。双海が艶やかに笑うのに、物部は一瞬気後れしてしまった。双海が心の中で、
(こんなことでひるんで欲しくありませんね)
 なんてことを思っているとは思いもしないで。
「二人を呼ぶ」
 他の五つの球体を消して、御荘たちだけを残した。そして、呼ぶ。
「御荘、松前」
 助手席にいる御荘がハッとして物部を直視した。
 双海は紅の球体の中の御荘と松前を黙って見つめていた。
(出雲に二人を向かわせるのは、我ながらいい考えでしたね。2対5は、分が悪そうですが、まあ、出雲の戦力を少しでも削ってもらえれば、それでいいのですから。せめて、一人頭二人は勘定にいれたいですね。少し無理かもしれませんが)
 双海はそう思って僅かに頬を緩める。
(特に、松前、あなたが犯した罪は、大き過ぎますからね。そして、祖谷のことを自分のことは棚に上げて、侮辱するのは許せません。所詮、あなた方は同じことをしていたのですから。祖谷のことを蔑視出来るのは、兄である私だけなのですから)
 双海の心の中の言葉は、決して表情に出ない。双海は、祖谷のことを妹として見ることは見たが、肉親として愛したことなどなかった。双海にとって、自分自身さえも一つの駒として見ていたのだから。彼にとっては、自分の計画を着実に進めることだけしか見えないのだ。だから、松前に対してこんな感情を持っているのは、松前が祖谷のことを馬鹿にしていたためではない。それは、ほんの付けたりなのだ。双海は表情を元に戻して、三人の問答に耳を向けた。
「物部様」
 物部は御荘をジロッと見て、
「松前、車を止めろ」
 と言った。松前が車を止めると、
「二人に使命を与える。出雲五真将が、熊本県境からこちらに向かっている。それを迎え撃て。今からこちらに呼ぶぞ」
 と二人の返事も待たずに、紅の球体を濃くした。二人の姿は見えなくなる。双海は冷やかな表情でそれを見つめていた。物部がフッと気を緩めて、紅の球体を消した。
「巧くいったようですね」
 双海が呟いた。
「物部様はお疲れでしょうから、私が二人を呼びましょう」
 双海が左手の上に深緋の球体を浮かべた。祖谷と同じ《気》であった。
「御荘、松前」
 双海の呼び掛けに、深緋の球体の中に二人が現れた。二人の後ろに大きなイチョウの木が見える。樹齢の長い木は、それだけで《気》を発している。それを上手く使えば、大きな《力》が実現可能であった。物部が二人を飛ばした先をそこに選んだのは、そのためであった。
「御荘、松前、出雲五真将を決して奈半利に入れるなよ」
 物部が双海の球体に向かって言った。御荘と松前は、
「判りました」
 と深く頭を下げた。双海が深緋の球体を消す。物部が疲れたように息を落とした。
「大丈夫ですか、物部様」
 双海の声には、心配そうな表情は全くない。物部は首を振った。
「大丈夫だ、これぐらい」
 物部はそう言って、宙を見据えた。
「あと問題は、出雲と戸隠の王。それから、伊勢の二人か」
 物部はそう呟いた。双海は黙って物部の言葉を待った。自分の考えはあるが、これ以上言えば、物部の心に占める自分に対する警戒心が大きくなるはずだ。双海はそれを恐れていた。粛清されるのはまっぴらであった。《力》がすべての奈半利で、双海は一番ではないのだ。
「出雲と戸隠の王は、それほど動くまいな。とりあえず、少し放っておくか。双海」
「はい」
 双海は物部を見上げた。
「伊勢を任せてもよいか。二人の王たちは私が相手をしよう」
 双海は即答を避けた。物部は自分の心のうちを知っているのだろうか。
「判りました。お任せください」
 双海の返事は簡潔であった。そして立ち上がる。物部に一礼して部屋から出ていった。物部も立ち上がって、ギュッと拳を握り締めた。


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