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日向港に客船マリンエキスプレスが入港したのは、その日の15時過ぎであった。川崎港を先日の18時30分に出航して、21時間の船旅であった。次々と船旅を終えた車が出ていく中、濃紺の、かつて一世を風靡したRV4が下りていった。運転しているのは濃いサングラスがまるで似合わない小太りのおじさん、渋谷神室であった。
「これからどうなさいますか」
神室は助手席に向かって丁寧に言った。助手席に座っているのは、何故か、陬生克雅であった。克雅は、神室をチロリと見て、前に視線を戻した。
「とりあえず、延岡まで走ってくれ」
そう言って克雅は、神室を促した。神室は頷いて克雅の指示に従った。日向から延岡まで10号線を北上する。ハンドルを握りながら、神室はここにいることが未だに不思議であった。
前日、神室は夏休みに入った陬生学園に来ていた。クラブの顧問をしていない教師は、夏休み丸ごと休暇なのだ。かくいう神室も、その一人であった。長い休暇の間に、自分の研究ノートなどを持って帰っておこうと学園に寄ったのだった。とは言っても、それほど荷物もなく、紙袋一つ下げて教師用駐車場に向かった神室であった。独身の神室は、まだ休暇をどのように過ごすかは決めていなかった。何年も乗っていて、すっかり愛着のわいたRV4で、気ままに走り回るかな、と思うぐらいであった。
そのRV4がガランとした駐車場のなかほどに止まっている。神室の給料ならば、もっと性能の良い新車が買えるのだが、あちこち傷のついた濃紺の愛車を見るたびにもう少し一緒にいたいな、と思うのだった。紙袋を左手に下げたままで、ドアを開けた神室は、ギョッと助手席を見た。それが誰か確かめる前に、車の外装を見、自分の車であることを確かめて、改めて助手席を見る。
「あの……」
と言った後、神室は口をポカンと開けてしまった。
「久しぶりじゃな、神室」
助手席の人物はそう言って笑った。神室は硬直したように動けなかった。
「まあ、乗ったらどうじゃ。お前の車だぞ」
明るい笑いが響く。それによって神室の緊張が解れた。神室が紙袋を後部座席に置いて、運転席に座る。
「あの……」
神室が助手席を向いて口を開いた。
「川崎港に向かってくれ、神室。話は道々出来る」
神室は車を発車させた。
「小さいが、それほど乗り心地は悪くないな」
と呟くのに、神室は、
「あの、今日はいかがなさったのですか。陬生財閥の会長ともあろうお方が、お一人ですか。あの、陬生克雅様」
と言った。助手席に乗っていたのは、陬生克雅であったのだ。克雅は、ククと笑った。
「わしは、一線を退いたただの一人の老人なのだ。すでに、良之にすべての権利を譲ったからな。そう、一つのことを除いて。わしはもはや、陬生財閥の何物も自由に使うことが出来ないのじゃ」
克雅は面白そうに笑う。
「あの、では、私の車に乗っているのは、どういう理由なのでしょうか?」
神室が心底不思議そうに克雅を見つめる。信号待ちが終わると、神室は前に視線を戻したが、まだ答は貰っていなかった。
「陬生の名からはすべて手を引いたが、戸隠はまだわしの手の内だ、ということだな」
「私を戸隠の一族としてご所望、ということですか? しかし、私は……」
神室が困惑の表情を浮かべている。それを誇りに思っている、とは断言出来ないほどに、神室はその認識が薄かった。
「いや、判っている。お前には、わしをあるところに連れていって欲しいだけだ。それだけを頼みたかったのだ」
克雅の笑いが消えて、神室は急に冷え冷えとしてきた車内に息苦しくなった。スッと克雅が神室の左腕に触った。途端、息苦しさが消える。
「克雅様……」
「すまんな、神室。お前に一族足ることを強制するつもりはない、と言っておきながら、このようなことをして。大丈夫だ。戸隠の王はわしの代で終わる。良之には何も言っていないから」
普段の克雅では、想像出来ないほどの弱々しさでそう言った。普段を知らない神室でさえ、それに驚いていた。
「克雅様、確かに戸隠の一族は、私のようにすっかりその名から離れた者も多いと思いますが、それでも、戸隠の王がいらっしゃるかぎり、戸隠は戸隠として、どのようなところでも生きていけるのだと思います。そして、その出現が僅かとはいえ、《力》を持った者たちが出るのをどうなさるのですか。たとえば、会長、いえ、朝霞くんのように。彼はあなたがいたから、生き続けられたのではないのですか。戸隠の王として、それは、成さねばならないことなのではないのでしょうか」
神室はそれを自分の口から言っていることが、信じられなかった。誰か、他の者が自分の口を借りて、喋っているようであった。克雅は神室の言葉に一人の青年の姿を脳裏に浮かべた。何年も前にこの世を去って、すでに思い出の中にしかいない。最期に見せた微笑みが神室の言葉に重なった。
「戸隠の王として、か。お前にそれを言われるとは、思わなかったな」
克雅は深く考え込んだ。そしてそのまま、川崎港に着くまで口を開かなかった。
「神室、あれに乗って、今から日向に向かう」
川崎港に着くと克雅はそう言って、神室に切符を手渡した。神室の分と二枚ある。
「克雅様」
「神室、わしは、戸隠の王として、戸隠の一族の行末を守る立場にある。確かにその通りじゃ。だが、わしが守りたいのは、たった一人。それを守りに行きたいのじゃ」
毅然とした態度で、克雅が言った。神室は何故従うのだろうか、と思いながらも車を客船に乗り入れた。
そして、今、客船を下りて、10号線を北に向かっているのであった。日向から延岡まで、約20キロであった。右に日向灘を見ながらの道のりは早かった。
「延岡から、218号線で高千穂方面に向かってくれ」
克雅がそう言って目を閉じた。
(高千穂?)
神室もいちおうは戸隠の一族である。高千穂には、一方ならぬ思い入れがあった。だが、まだ訪れたことはなかった。
「高千穂に行かれるのですか?」
神室の問いに、目を閉じた克雅は返事をしなかった。神室は黙って運転に集中した。克雅が何かを探っていることに気づいたからであった。
「克雅様、あなたが守りたい人、というのは……」
船旅の間、僅かに会話が途切れた時に、神室はそう言いかけた。克雅は黙って神室を見つめる。神室は何も言えなかった。そして、心の中で思ったのだ。
(それは、やはり、彼、なのだろうか)
と。おそらく、それは当たっているのだろう。神室は運転しながら、それを思い出していた。彼と陬生克雅との間に何があるのか、正直言って神室は想像すら出来ない。神室はただ単に、戸隠の一族の末裔でしかないのだから。その自分が戸隠の王の隣にいる。それがいきなりおかしくなった。緩みそうになる口元を引き締めて、神室はふと傍らの克雅を見た。克雅は、さきほどから目を閉じたままであった。車はすでに218号線に入って、五ヶ瀬川を上流に向かっている。その上流に高千穂があるのだ。
「神室、次を右折だ」
突然に克雅の視線を感じて驚いたが、神室はその指示に迷わず従っていた。どうやら、高千穂には向かわないらしい、と神室は思った。どう考えても、右折した道から高千穂に向かう道はないようだ。
「神室、どこか広いところで車を止めろ」
神室は少し行ったところで車を止めた。克雅はさっさと車から下り立つ。そしてドアを閉める前に、神室を覗き込んで、
「ついてこい」
と言うとドアを閉めて歩きだした。神室は回りを見て、通行の邪魔にはならないだろうな、と判断すると克雅の後を追った。まさか、こんな田舎で駐禁なんてとられないだろう。
「克雅様、ここはどこですか」
日向市内で地図を買い、確かに地名は確認出来ていた。だが、それ以上に克雅がここに来た理由があるはずである。
「お前にこの役をやらせたのは、確かにまずかったと思う。だが、牟礼が出払っていたからな。それに、お前は神室だし」
克雅が最後に言った言葉は、神室には意味不明であった。それを聞こうとする前に、
「もう一人、いや、二人、道行きが増えるが、我慢してくれ」
と克雅が言った。不審そうな神室のそれを解消させることなく、克雅は、鳥居をくぐった。神室がその名称を読む。行縢神社であった。鳥居をくぐって一歩のところに、克雅が立ち止まっていた。神室はもう少しで、克雅にぶつかるところであった。まさか、そんなところに克雅が立ち止まっているとは思わなかったのだ。
「か、克雅様」
驚いて声を上げた神室を、克雅は制した。その厳しい表情に、神室は口を噤んだ。克雅はジッと回りを見渡していた。神室は鳥居をくぐる前と後の空気が違うことに気づいていた。それぐらいの感覚は、神室にもあったのだ。すると、克雅が立ち止まっているのは、何か邪魔物があるということなのだろうか、と神室は漠然と思った。それを感じることは神室には出来ない。まして見ることなど。しかし、悪意の感触ではない。だが、誰かがそこにいた。
境内は森閑としていた。神社はそれだけで聖地であった。つまりは、結界の張りやすい地であるのだ。普通の人間ならば、鳥居をくぐったところで引き返しただろう。それが不自然だと感じなくて。克雅が右手を広げたまま、前方に差し延べた。克雅の手のひらがぼうっと明るくなった、途端、そこにプラズマが発生した。
(何かと接触しているんだ)
神室はそれを見つめながら思った。それはどちらかが勝つことによって、どちらかが負ける、それを判断する対象であった。だが、それは突然に消え去った。克雅の手のひらの光は相変わらずそこにある。と言うことは、相手のほうが引いたのだろうか。
ふっと神室の目の端に何かがうごめいた。そちらを向くと、二人の人物が木立の中から出てくるところであった。見た目は、一人は神室よりも若く、一人は同じぐらいであった。その若いほうが口を開く。もう一人は一歩退いて、克雅のほうを直視していた。
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