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 その頃、伊勢の王国では、朝熊の弟の香春が高屋の元に毎日通っていた。高屋に《力》の使い方を教えるためであった。
「もう私の教えることはなさそうですね、高屋様。よろしゅうございました。私も兄に会わす顔が出来ます」
 香春は20歳。朝熊には似ていず、朝熊が母親似なのに対して、香春は父親似なのであった。ついでのようにほとんどすべてにおいて、香春は朝熊に似ていなかった。その性格や物腰など。それはつまり、高屋にとってみれば助かることだったのだが。香春が朝熊のようであれば、これほど毎日一緒にいることは出来なかっただろう。
「そうか、それは香春の教え方が良かったためだろう。ありがとう」
 ホッと一息ついて高屋は言った。香春は高屋の正面の椅子に座りながら、
「いいえ」
 と首を振った。
「私など、兄に較べれば遙かに未熟者です。兄であれば、もっと早く高屋様の《力》を延ばすことが出来たでしょう。兄が伊勢に留まっていれば、これは兄がしたでしょうから」
 香春はそう言いながら、奇妙な表情を僅かに浮かべた。それに気づいて高屋が不思議そうな顔をする。香春が高屋の表情に気づいた。そして、苦笑いを浮かべた。
「申し訳ありません。今の表情は見なかったことにしていただきましょう。高屋様、兄がこの役をしなくて良かった、と思っていらっしゃるのでしょう。いいえ、答えていただかなくても構いません。兄にとってみれば、この世で大切なものは一つしかないのですから。その他のものに対しては、眼中にないのですからね。そう、私たち家族にでもです」
 高屋が香春をジッと見つめる。
「香春、以前から聞きたいと思っていたのだが、教えてくれるだろうか。朝熊は何故、倭の守り人なのだ? 安芸様から朝熊の家にそれを頼まれた、と言うことだが、それはどういう意味なのだ?」
 香春が高屋からスッと目を逸らした。
「安芸様は、私たちの家のその時の当主に、安芸様の子孫に倭と名乗る女子が生まれた時には、その守り人となるように、と言い残されたそうです。そして、安芸様から数えて三代後、つまり今、安芸様の曾孫として倭が生まれ、兄が彼女の守り人となったのです」
 香春はそう言いつつ、高屋にこれを言ったことが朝熊にばれたら、叱られるだけではすまないだろうな、と思っていた。だが、香春はなおも喋り続けていた。
「高屋様。高屋様たちは、この伊勢に透明に限りなく近い勾玉の持ち主が、倭しかいないと思っていらっしゃるでしょう。ですから、実はもう一人その持ち主が伊勢の中にいたと言っても、信じていただけないでしょうね」
 香春は口元に自虐的な歪みを浮かべながら、言葉を続けた。もはや、彼の口は止めようがないまでに滑り続けていた。
「そのもう一人が、兄です。倭にも教えていないと言うことです。それから、私と兄にはもう両親ともいませんが、私たちは父親違いの兄弟です。ですから、安芸様が倭のことを頼まれた家の住人は、兄しかいない、ということなのです。私は、その血を継いでいませんから。私は兄が伊勢から出ていく時に、高屋様のことと一緒に、そのことを聞かされたのです。それまで全く知りませんでした。兄はそのことを私に言い終わると、そのまま出ていったのです。それは珍しいことです。私に今から伊勢を出ていく、と言って出ていくのは、倭を頼む、という時以外には、今までありませんでしたから。それに、私にまだ何か言いたそうな顔をしていました。何も言いませんでしたけど……」
 やっと香春の口が止まった。相変わらず視線は下に落としたままであった。その僅かに見える表情に、ありありと後悔の色が見えるのを見て、高屋はスキンヘッドをつるりと撫でた。
「香春、朝熊はお前に別れを告げたかったのではないのか」
「別れ?」
 香春の顔が高屋に向きながら、その表情を怒りに変えた。
「高屋様は、兄が死ぬと思っているのですか」
 香春の表情に驚いて、高屋は慌てて首を振った。
「いや、そう思っているわけではない。単なる言葉の綾だ。すまなかった」
 香春は高屋に向けた視線をまた、下に向けた。コホン、と高屋が気まずくなって咳払いをした。
「あ、と、香春」
 香春は無言で立ち上がった。しかしすぐに、高屋に目を向ける。
「高屋様、私の役目は終わりましたので、失礼させていただきます」
 感情が幾らか入っていたとはいえ、失礼のないように礼をして出ていったのは、朝熊と違うところであった。朝熊ならば、無言のまま出ていったかもしれない。そこが、朝熊と香春の大きな違いであった。
 ゴツッと高屋は自分の頭を殴った。そして、深い溜め息をつく。
「私としたことが、余計なことを……」
 そう言いつつ高屋は腕を組んだ。
「だが、それは本当のことではないのだろうか?」
 高屋は呟く。今まで隠しておいたことを話す、ということは、何らかの事情があるからだ。その事情というのが、高屋には一つしか思いつかない。高屋は朝熊の《力》の程を知らないし、いや、誰にしてもだが、朝熊が倭と同じように透明に限りなく近い勾玉の持ち主であることは、今知らされたのだから。
「朝熊、お前はすべてを話すことはないのかな。……いや、それを聞かなければならない。お前が話さないのなら、私から聞かなければならない。私も行かなければ、奈半利に。朝熊にすべてを聞かなければ……。私はきっとそうすべきだ」
 高屋はパッと立ち上がると、椅子の背に掛けていた紫黒のローブをはおった。そして、ガチャッとドアを開けて、ハッと息を呑んだ。
「香春……」
 ドアの向こう側に立っていたのは、香春であった。香春はまじまじと高屋を見つめる。その表情には、感嘆と悲愴が混ざっていた。その表情をしばらく浮かべたまま、香春は高屋を見つめ続けた。
「高屋様」
 香春はその二つの表情を消して、口を開いた。高屋はその、こんなところだけ似ている、香春の静かな口調に全く動けなかった。
「兄は私に高屋様を伊勢から出してはいけない、と言われました。あなたは伊勢にはなくてはならない人だから、と。そういう行動に出られたら、腕ずくでも止めるようにと言われています。兄は私が聞いたことを、高屋様に話すことを判っていたのでしょう。そして、それによって高屋様が取る行動まで判っているのです。高屋様、兄はこの時に、この言葉を伝えるようにと言いました。高屋様の言う通り、巫覡はもはや必要ありません。そして、伊勢をこれから守っていくのは、あなたの役目です。これから先、伊勢がどのような道をたどるのかは、あなたの選択次第。そして、それが伊勢の命運を決めるのです。私たちはもう戻ってこないでしょう。どんな終わり方をするとしても。そして、これから伊勢を、私の希望としては」
 とそこまで言って、香春は言葉を切った。高屋が不審そうに香春を見つめる。香春は高屋に微笑んで、
「高屋様、兄はその後何と言ったと思います?」
 と言った。高屋が少し考えて首を振った。
「私には…判らない」
 香春はポツリと呟いた。
「兄は、それ以上何も言いませんでした」
 香春はフッと哀しげな色を浮かべて、
「そう、高屋様のおっしゃったことは正解です。兄は、もう戻ってこないのです。それは未来で起こる事実なのです」
 と付け加えた。高屋は紫黒のローブをギュッと握り締めた。
「朝熊は……」
 香春が首を振る。香春の目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。
「兄が私の兄であったのは、倭が生まれるまでの2年の間だけです。私が2歳になるまでの……」
 香春はくるりと背を向けた。止めどなく流れる涙を、これ以上高屋に見せたくなかったからであった。
「香春、お前は、それでも、朝熊を愛しているのだな」
 高屋はそう言って、香春の肩を抱いた。
「高屋様」
 香春は震える声で言った。
「それがどうあろうと、朝熊が私の兄であることは真実です。兄がどのような生き方をしようとも、私にとって最後の肉親なのですから。私がどれだけ手を伸ばしても、兄はその手を私のほうには伸ばしてくれないでしょう。でも、それでも私は」
 香春は口を噤んで歩きだした。高屋の香春の肩に置いていた手が宙に浮いた。
「高屋様、伊勢から出ないでくださいね。私は兄の指示に従いますから」
 背を向けたまま、香春は出ていく。高屋はそれに従わざるを得ないことに気づいた。紫黒のローブを脱いで、高屋は部屋の中へと戻っていった。そして、椅子に深く座り込む。高屋には、香春の気持ちが痛いほど理解出来た。その葛藤さえも。
「罪作りな男だぞ」
 口の中で呟くように、高屋は言った。
 それが伊勢の事情であった。
 そして、出雲の事情は……。


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