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陬生克雅は、いつものホテルの一室に一人でいた。
「ついに離れていく、か、朝霞」
克雅はポツリと呟いた。朝霞を愛していない、と言えば、嘘になる。だが、愛している、と言っても嘘になるのだ。
克雅はベッドの横の電話を手に取る。呼び出した相手はすぐに出たようだった。
「良之か、私だ。明日の朝、ここに書類を取りにきてくれ。それが正式な書類になるが、今のうちに言っておく。私は今日限り、一線を退く。お前がすべてを受け継ぐがいい。判ったな」
克雅が少し口を噤んだ時に、相手は何か言っているようであった。だが、克雅はそれに答えることなく、
「良之、私はお前を後継者として育ててきた。お前はそれにふさわしく成長したと、私は思っている。だが、お前がすべてを継いでみて、それでふさわしくなかったとしても、私は何も干渉しない。お前の思うままに、陬生を動かせ。だから、お前も私にもう干渉するな。私は一人の老人として生きるから。判ったな、良之」
と言うと、一方的に電話を切った。克雅はサイドテーブルの上の書類にもう一度目を通して、そして置いた。それは克雅の持っているすべての権利を、良之に譲渡する、という譲渡書類であった。すでに克雅のサインは書いてあった。克雅はふと気づいて、ペンを取ると一文付け加える。そして、もう一度読み返して頷いた。あとはそれに良之がサインすればいいだけになっていた。
「任せたぞ、すべて」
克雅はそう言って立ち上がる。そして、電気を消した。
次の朝、良之がやってきた時には、克雅の姿はすでになかった。良之は書類を手にして、松葉色のカーテンを開けた。陽射しが容赦なく射し込む。
「お父さん」
良之はそう呟いて、外を見つめ続けた。良之は克雅の三人の実子のうちの長男であった。そして、克雅はそれ以後二度と家族の前に姿を現さなかった。
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