ガチャと扉が開いて、
「あれ、頓原は?」
 入ってきたのは倭であった。朝霞は一緒ではない。朝熊は首を振った。
「倭、朝霞は?」
 倭は後ろを振り向いて、慌てて外に出て戻ってきた。今度は朝霞も一緒であった。朝霞は朝熊から目を逸らして、椅子に座った。
「朝霞、私たちは奈半利に向かう。朝霞たちは遙さんを守ってくれ。崇は私たちが必ず連れて帰るから」
 朝熊が朝霞の隣に立ったままで言った。朝霞が顔を上げた。
「あいつは? 一緒に行くのか?」
「おそらく」
 そう言って朝熊は頷いた。朝霞はふっと視線を床に向ける。その肩に朝熊がそっと手を置いた。
「朝霞、頓原のことを誤解するなよ」
 朝熊の言葉に朝霞がキッと朝熊を睨む。
「誤解するな、だって。僕があいつのことをどう誤解してるんだ。あいつこそ、僕のことを誤解している。僕は……」
 朝霞は興奮し過ぎて言葉を失っていた。朝熊が首をゆっくりと横に振る。
「朝霞、お前なら頓原の本心を判ってやれるはずだぞ」
 そう言いつつ朝熊が紫紺の《気》を拡げた。倭はそれが二人を包むのを認めながら、それに近づくことさえ出来なかった。倭は唇を噛む。朝熊が結界を張ったのは、倭に聞かせたくない話をしたいからだ。いつも、倭は大事なところは教えてもらえない。
「朝熊、いつまで私を子供扱いするつもりだ」
 そう叫んで、倭はしかたなく椅子に座った。
 結界の中では、朝霞がジッと朝熊を見つめていた。朝霞は朝熊が結界を張ったことにさえ気づけない。
「頓原の本心?」
 そう言って朝霞は朝熊を探るように見つめていた。朝熊は何も言わない。
「あいつの言っていることがすべて正しいって……それを僕が認めるとでも? 僕があいつを認めるとでも? あいつの本心など、たかが知れてる」
 朝霞はそう言いつつ次第に声を落としていた。朝熊はただ黙って朝霞を見つめる。
 沈黙が流れる。それを恐れるように、朝霞が言葉を発した。
「朝熊、僕は逃げているか……」
 朝熊は表情を変えずに、朝霞をただ見つめていた。そして、
「その答は、自分の中にある」
 とだけ答えた。それを認めることは、幾度となく感じた屈辱と快楽を認めること。それを認めたくないからこそ、ただ逃げていただけなのだ。気づいていない振りをしていたのも、気づいていないと思っていたのも、朝霞自身なのだ。朝霞はジッと自分の手のひらを見つめていた。朝熊は何も言わずに、朝霞を見つめているだけであった。
「僕は……もう…逃げない」
 朝熊が頷いた。朝霞の手のひらから天色の《気》が立ちのぼる。それ自体にも驚いて、朝霞は自分で見えることも驚いて、朝熊を見上げた。朝熊がギュッと朝霞の両手を握る。朝霞の天色の《気》はそれによっておさまった。
「朝霞。自分の《力》を制御出来るのは、己だけだぞ」
 朝霞が朝熊の手を握り返した。朝熊が優しく微笑む。
「お前は逃げていたわけじゃない。ただ、寄り道をしていただけだ。ほんの少しだけ……」
 そう言って、朝熊は朝霞から手を離した。
「朝霞」
 と、朝熊の声色が突然変わった。朝霞が不審そうに朝熊を見上げる。
「もしも……私に何かあったら、倭のことを頼む」
 朝霞が眉をひそめた。
「それはどういう意味?」
「言葉通りの意味だ。何の裏もないぞ」
「朝熊」
 朝霞には朝熊の悲痛な表情が不思議だった。はたして朝熊に何かあることが、起こり得るのか。
「朝熊が奈半利に殺られるとでも?」
 そんなことがあるはずはない。朝熊を倒せる者などいるはずはないではないか。朝熊がフッと笑った。
「私は奈半利には殺られない」
 朝霞が朝熊の言葉にニッと笑った。だが、すぐにその表情を変えた。朝熊の表情の変化に朝霞もならったようであった。
「崇と遙さんが会うことによって、もし目覚めるならば、私の中の………も目覚める」
 そこだけ朝熊が低く呟いたので、朝霞には聞こえなかった。朝霞はだが、聞き返せなかった。己の防御本能が働いたのだろうか。朝霞は聞こえなかったほうがよかったような気がしていた。朝熊がポツリと、
「結界を解く。今のことは倭には内緒だぞ」
 と言って結界を解いた。そこで、始めて朝霞は結界の中にいたことに気づいた。倭が結界が解かれたことを知って顔を上げて、そして朝熊を見つめる。聞きたいことは山ほどあるのに、倭は聞かなかった。倭の朝熊に対する信頼は、何者にも負けることなどないのだ。それを朝霞は再認識した。そして、その危うさの可能性に気づいて、そして、思い直した。朝熊が倭の信頼を裏切ることなどあり得るはずはないではないか。朝霞は首を振って、その考えを振り払うのだった。
「柚木野さんのことは任せてくれ。絶対に奈半利の手には渡さない」
 朝熊と倭が頷いた。そして、二人は部屋から出ていく。それを朝霞はジッと見つめていた。何故か、朝熊を呼び止めたい、そんな気がしてきた。もう会えないわけではない。ただ、朝熊とこうして話す機会がもう来ないような、そんな気がしたのだ。そんなわけはないではないか。この戦いには絶対に勝のだ。その後で戸隠も伊勢も、そんなものは関係なく付き合っていけるのだ。朝霞はそう思って、ただ二人を見送った。二人は振り返ることなく、扉を閉めた。


←戻る続く→