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さてこちらは奈半利である。頓原を一人部屋に残したまま出ていった松前は、御荘のところにいた。
「松前」
そう言ってジロリと御荘は睨んだ。松前は首を竦める。
「高千穂の名を出したのはまずかったな。疑いだけだったのかも知れぬのが、確信に変わったぞ。これで奴に逃げられたらどうすればよいのだ」
松前はキッと顔を上げる。回りには室戸と離れたところに崇を挟んで、八坂と八浜がいる。
「それに対しては、心配はございませんわ。私の薔薇から逃れることは出来ないのですから」
ふん、と笑って御荘は松前を見つめた。それに関しては、松前のことを信頼している御荘であった。松前はもちろんのこと、慎重派の御荘でさえ、頓原が逃げだせると思ってはいなかった。だから、誰も頓原を見張っていなかったし、みんながいるこの部屋から遠い部屋にいる頓原のことを考えなかったのだ。頓原が人の気配を感じないままに、そこから逃げだせたのはそういう理由があったのだ。頓原にとってみれば呆気なく、奈半利にとっては油断であった。
「とりあえず、物部様には伝えておこう。八坂、八浜、お前たちは布城崇を連れて一足先に奈半利に戻れ。室戸、お前がそれをサポートする。私と松前は頓原を連れていくことにする。二手に分かれるが、連絡は密にする」
三人は頷いて、崇を抱えるように部屋を出ていった。この時にはすでに頓原はこの屋敷から抜け出していた。それをまだ奈半利は気づいていない。
「しかし、上手くいきましたね、御荘。物部様もさぞ、お喜びになるでしょう」
松前がにっこり笑って言った。御荘は黙って頷いた。右手の上に鴇色の球体が浮かぶ。それに向かって、
「物部様」
と御荘は呼び掛けた。すぐにそこに物部の姿が現れる。
「成功です。すぐにそちらに戻ります」
御荘の言葉に、物部は満足げに頷いた。
「さすがに御荘だ。わしの期待を完璧に叶えてくれる。待っておるぞ」
物部はそう言って消えた。御荘は鴇色の球体を消した。
「さて」
と御荘は松前を促した。
「物部様はもう次の作戦を立てているはずだ。それに遅れないように奈半利に戻ろう。松前、頓原を連れてこい。いや、一緒に行くか」
御荘と松前は頓原を捕らえている部屋へと向かった。
「お前の趣味を悪く言うつもりはないがな、松前。あまり感心せんな。ほどほどにしておけよ」
御荘が説教口調で言うのを、松前は肩を竦めて聞いていた。それを言われるのは初めてのことではない。それを言うのが御荘なのだ、ということであった。御荘にしてみれば、それを言うのが日常茶飯事のようでもあった。だから、松前の答を待っていたわけではない。
「待て」
と先に行っていた松前を御荘は呼び止めた。不思議そうに松前が振り返る。
「松前、ドジったな」
そう言って御荘は廊下を指さした。松前がそれを見て顔色を変えた。
「まさか」
と松前は走りだして、ドアをバタンと開けた。そのままずるずると膝をついた。顔色をなくして、御荘を振り返った。
「申し……訳…ありません」
そう言ってその後の言葉をなくした。御荘の顔には表情が浮かんでいなかった。だが、松前には御荘のその状態が一番恐ろしいことを知っていた。部屋の中の頓原の姿は消えていた。物部に今、作戦の成功を伝えたばかりであった。その舌の根の乾かぬうちに、逃げられました、と言えるわけはない。頓原を逃がしたのは、松前だけの失敗だけではない。御荘もそれに責任があるのだ。
「頓原を甘く見過ぎたな……」
御荘はそう呟いて、ギリッと歯を鳴らした。その目に頓原がくり抜いた薔薇の球根が映っていた。
「また計画の建て直しだな。松前、頓原のことは今回はお預けだ。布城崇だけでも奈半利に無事に連れて帰ることにしなければ……。物部様に申し訳ない」
御荘は松前の腕を取った。
「急ぐぞ。頓原がここのことを知っている。室戸たちと合流しよう」
松前が頷いて車を出してくる。御荘が乗り込むと松前は発車させた。
「物部様には…報告しなければならないのではありませんか」
松前が運転しながらおそるおそる言った。御荘が眉をピクリと動かした。ギュッと握った拳をパッと拡げた。その上に鴇色の球体が浮かぶ。
「物部様」
御荘は絞り出すように言った。上機嫌の顔で物部が現れる。
「申し訳ありません」
と御荘は物部の顔を見ることが出来なくて深く頭を下げた。物部の表情がみるみる変わる。
「頓原を逃がしてしまいました。そして、奈半利の場所も知られてしまいました」
悲痛な声で報告する御荘を物部は黙って見つめていた。怒りのあまり言葉が出なかったのだ。
「油断していました」
物部は口元をひくひくとさせていた。
「お前は私の信頼を裏切った」
物部の声が低く流れた。御荘はさらに深く頭を下げた。
「奈半利に一度戻ります」
「御荘」
「はい」
「奈半利には戻らなくともよい。次の使命を与える。それで今回のことを帳消しにしてやろう」
御荘は顔を上げて、物部を見つめた。
「柚木野遙を奈半利に連れてこい。お前たち二人で、彼女を連れてくるんだ。室戸たちとは出会ってはならない。布城崇と柚木野遙を、奈半利に連れてくるまでは会わせてはならない。御荘、判ったな」
「判りました」
物部はすぐに姿を消した。御荘はしばらく自分の鴇色の球体を見つめていた。
「御荘」
松前が車を寄せて止めた。御荘は拳を握って鴇色の球体を消した。
「柚木野遙……か」
御荘は遙を知らなかった。だがそれは調べればすぐに判ることだった。
「今度失敗すれば、物部様はお許しにはならないだろう。松前、車を出せ。計画を立て直す」
松前は車を発進させた。新しい奈半利の隠れ家に向かったのであった。
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