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「くっそー」 と頓原は唸った。松前の言うことは真実だ。どうにか体は自由に動かせるようになったが、《気》は薄れゆく一方であった。宍道に知らせることも、ここから逃げだすことも出来なかった。 「まあったく、朝熊たちは何をしていたんだ。何で今日に限って、布城崇を一人にしたんだ。ホント、不幸の星の下に生まれたんだな、俺って。奈半利に捕まった上に、女にもてあそばれているんだもんな。あー、情けねー。ホント、内緒にしてくれるんだろうか」 頓原はぶつぶつと呟いた。だが、頭の中では他のことを考えていた。 (宍道はどうして、高千穂の名を言ったのだろうか。宍道は高千穂に目を付けていたのか。それとも、本当に偶然? 口から出任せ?) 頓原の考えていることは、そのことであった。宍道が高千穂に本当に目を付けていたのなら、他の者も派遣しているのではないか。その者たちは何の収穫もなく、高千穂から帰ってきたのであろうか。 のほほんとしている頓原だったが、今度ばかりは焦っていた。出雲のためならば、俺を切り捨てることが出来るはずだ、と宍道のことを思っていた。それが出来なければ、出雲の王ではない。宍道は実の父親さえも切り捨てたではないか。頓原はそれを考えたくなかったが、宍道を信じていた。頓原も、宍道のためならば命など惜しくないのだ。もし、宍道が頓原の命を惜しいと思ったとしたら、頓原は宍道をそれ以後認めることは出来ないだろう。 今度のことは、己の油断であった。それを知っているから、頓原は宍道の耳に入る前に、自分の力でこの状態を解消したかった。たとえ、奈半利の誰かと刺し違えても、宍道をわずらわせたくはなかった。松前の薔薇を咲かせてはならないのだ。頓原の首筋の赤い斑点は少し盛り上がっていた。薔薇の芽が芽吹こうとしている。時間がない、と頓原は思った。部屋を見回す頓原の目が止まったのは、カッターナイフとライターであった。 (首筋か。嫌だな) 頓原はそう思ったが、カッターナイフの刃をカチカチと出して、ライターであぶりだした。カッターナイフの柄のプラスチックが刃の熱を感じて溶けそうになる。頓原は鏡の前に立って、熱い刃を首筋に突き立てた。そして、薔薇の球根と思われるところをえぐり取る。 (あーあ、血を見るのは好きじゃないのにな) 頓原は流れ出る血を眺めながら、そう思った。ポトンと薔薇の球根が床に落ちた。頓原はシーツを切り取ると、首に巻く。それで止血が行われていないことは判っていたが、何もしないよりはましだと思っていた。ゆっくりとしている暇はなかった。松前がいつ戻ってくるか判らない。頓原自身も早く、八雲に癒してもらわなければならなかった。今、再び捕まったら、今度こそ逃げるチャンスはないだろう。それを頓原自身が一番知っていた。 「まあったく、情けねえ……」 頓原はゆっくりと扉を開ける。その時、部屋の中に深緋の球体が現れてすぐに消えたことには、頓原は気づかなかった。廊下を見渡しても誰もいない。崇を探している暇は今はないのだ。とにかく、奈半利の手に届かないところまで行くことが先決であった。頓原は奈半利が何人いるのか知らない。その隠れ家はひっそりとしていた。人の気配がない。それでも慎重に慎重に頓原は出口へと向かった。頓原は出口に無事にたどり着いた。 (おかしいな) と頓原は思った。自分が逃げだすことも罠の一つだろうか。そうなのかもしれない、と思っても、頓原の選ぶ道は一つしかなかった。出血は止まらなかったが、《気》の薄れは消えていた。僅かばかり残った自分の《気》を自己再生しつつ、頓原は出雲の隠れ家に戻っていった。尾けられていない、とも限らなかったが、それを気にするほどの余裕は全くなかった。外に八雲を呼び出すことも考えたが、頓原はそれをしなかった。 頓原の姿を見た八雲は、途端に顔色を変えた。頓原よりも顔色が悪くなったようだった。 「八雲、宍道の選択は正しかった、と言うわけだな」 そう言って倒れ込む頓原を、八雲は慌てて支えた。そして、頓原の首に巻いたシーツの切れ端を外した。 「とにかく、先に治すから」 八雲の両手から若草色の《気》が立ちのぼる。それが頓原の傷口を覆った。頓原は目を閉じていた。ホッと緊張が緩んだことと、八雲の癒しの《力》の心地よさに眠りの世界に誘われていた。 「あなたにこれほどの打撃を与えるなんて、奈半利にもかなりの手腕がいるみたいだね」 八雲が頓原の癒しを終えて言った。頓原はその声にハッと意識を取り戻した。そして、慌てて起き上がる。驚いて八雲が頓原を止めた。 「駄目だよ、頓原。二日は絶対安静だ。自分の《気》が今、ほとんどないことに気づいているでしょ。そんな状態でどこに行こうっていうの」 頓原は八雲の手を振り払った。 「俺はどうでもいいんだ。八雲、お前は仁多に言って、すぐにここから場所を移してくれ。俺は尾けられたかもしれない。俺は他にすることがあるから出掛けてくる」 八雲が頓原の腕をギュッと握って離さない。 「駄目、駄目だよ。頓原まで俺を置いていくの? 湖陵様は俺に何も残さないまま逝ってしまった。頓原も俺を一人にするの?」 頓原が八雲の頭をそっと撫でた。 「馬鹿だな、八雲。俺が死ぬとでも思っているのか。約束するよ、八雲。死ぬ時はお前の許可を取ってから死ぬから。お前が死ぬな、と言うのなら、俺はずっと生き続けるさ。大好きな八雲のためだもの」 「本当に?」 八雲がすがるような目で頓原を見つめた。頓原は頷いた。 「だから、奈半利の攻撃に合う前に場所を移してくれ。俺もすぐに戻るから」 八雲は頷いて、頓原から手を離した。頓原はもう一度八雲の頭を撫でると、部屋から出ていった。八雲はそれを見送ってすぐに仁多に会いにいった。
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