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 さて、東京。
 朝熊は頓原から出雲に一度戻るという電話をもらってからも、相変わらずの、倭とともに陬生学園に通う日々を続けていた。檮原を倒したことは、朝熊たちには伝わっていない。だから、朝熊たちは東京にまだ奈半利が残っているものと考えていたのだ。
 とりあえずは退屈な日々をみんな送っていた。そして、奈半利から新たな人々がやってくることを誰も知らない。そして出雲五真将の誰も、まだ木次の死を教えられていなかった。
 そして学園は夏休みを迎えることになる。その二、三日前に、朝熊たちはカフェテラスで朝霞と会っていた。夏休みの間、崇の守りをどうするか、ということであった。
「弓道部はいちおう毎日クラブ活動をしているな。僕も毎日学園には出てくるつもりだ。朝熊も変わりなく? 伊勢に戻る予定はないのか」
「そうだな、倭はそろそろ帰りたいんじゃないか」
 朝熊が笑いを含んだ口調で言う。倭が朝熊をキッと睨んで、
「朝熊、そんなに私を子供扱いするな。使命を果たすまでは、決して伊勢には戻らない」
 と言った。朝熊がクスリと笑う。
「それじゃあ、私は一度戻ってこようかな。香春の様子も気になるし、奈半利の王が死んだから、しばらくはおとなしいんじゃないか、と思うしね。朝霞はどう思う?」
 倭が口をポカーンと開けて朝熊を見つめた。その様子を朝霞は面白げに見ている。
「少しの間だったら大丈夫だと思うな。倭姫も朝熊と一緒に一度伊勢に戻ったらいかがですか」
 倭は口をパクパクさせて、二人を見つめる。
「あ、あのね、二人とも……。あーもう、私をからかっているわけ? 奈半利があれで手を引っ込めたと言うのか?」
 朝熊が倭を見つめて真面目な顔になる。
「もちろん、奈半利は決して諦めないだろう。さらに熾烈な戦いになるはずだ。おそらく、奈半利が滅びるか、我ら三つの一族が滅びるか、どちらかにならないと、すべては終わらないんだ。倭、崇を目覚めさせる手段を伊勢は知らない。だから、彼を手に入れようとしない、そうだな。だが、奈半利は彼を手に入れようとしている。この違いは何だ?」
 倭がギョッとした顔で朝熊を見直した。
「奈半利は、崇を目覚めさせることが出来るってことか?」
 朝熊は頷いた。
「そう考えなければ、筋が通らないんじゃないのか。崇は透明の勾玉の持ち主だと我らは考えている。透明の勾玉の持ち主は、透明だからこそ、何色にも染まることが出来るんだ。もし奈半利が目覚めさせたとすると、彼は奈半利の色に染まるだろう。彼は何人にもなれるんだ」
「目覚めたら、もう、透明ではない?」
 朝熊は首を振った。
「それは私には判らない。染まったものが変わるかどうかは」
 それまで黙っていた朝霞が口を開いた。
「崇は何者なんだ? 目覚めるとはいったい何だ? まだ僕には話せない?」
 倭が朝熊を見る。朝熊はうーん、と唸った。
「朝霞にとっても、崇は何者なんだ? それは話せるか?」
 朝霞は朝熊を見つめ返した。
「僕にとっても大切な人だ。僕を変えてくれる人だから……」
「まあ、会長の大切な人ってどなたですの。私、初耳ですわ」
 突然の声に三人は三人とも驚いて顔を上げた。それもそのはず、倭の結界の中に三人は入っていたからだった。結界と言っても、三人の姿は見えるが、その近くに近づこうとしないという程度に薄めてはいたのだが。
「遙さん」
 倭が笑みを浮かべて振り返る。柚木野遙であった。倭より三歳年上である遙を、倭は姉のように見ていた。それまでそんな風な人がいなかったためであろう。
「倭ちゃん、会長の大切な人って……誰?」
 遙がにこにこ笑って倭に聞く。倭を倭ちゃん、と呼べるのは、遙しかいなかった。それを許容出来るほどに、倭は遙を慕うことが出来、遙は倭にそう思わせる雰囲気を持っていたのだ。倭が朝霞に視線を向けて、さてどうしようか、という顔をしていた。朝熊は黙ってそっぽを向いている。朝霞は視線を泳がせて、倭に戻した。その瞳は困ったような表情を浮かべていたが、お好きなように、と言っているようでもあった。倭はそう判断して、遙のほうに向き直った。
「遙さん、立ち話も何だな、座らないか」
 遙はあら、という顔をしたが、座りはしなかった。
「ごめんなさい。ゆっくり出来ないの。今からオーケストラの練習があるものですから」
 遙はそう言って、倭の頭を撫でた。それを出来るのは朝熊だけだったのが、遙と二人になってしまったことを、倭は不思議な気分になり、朝熊はいくらか哀しくもあった。
「そうか。朝霞の大切な人っていうのは高等部1年A組の布城崇だよ、遙さん。学生会会計をしているな」
 倭の言葉に、遙は朝霞を目を丸くして見つめた。
「まあ、会長……。そうだったんですか」
「あの、柚木野さん、誤解しないで欲しいのですが、僕が大切な人、と言っているのは」
「会長」
 と遙は、朝霞の口を封じた。
「言わなくてもよろしいですわ。私、誰にも喋りません。麻績さんにも、もちろん言いませんわ。それに私、そのようなことで、会長を偏見の目で見るようなことはしませんから、安心してくださいね」
 朝霞は遙を見つめている。何も言えずに、遙の真剣な表情を浮かべている顔を見つめていた。倭は笑いをこらえた表情を浮かべて、朝霞を見つめた。朝熊と言えば、我関せず、と言った表情で、何も言わなかった。
「遙さんは、布城崇を知っているのか?」
 遙は首を振った。
「お名前だけは知っていますけど、会ったことはありませんわ。会長、今度近いうちに紹介していただけます? それから、会長に一つだけお願いがありますわ。麻績さんには絶対手を出さないでくださいね。麻績さんって、あれで面食いですから、会長に言い寄られたらきっと転んでしまいますわ」
 遙はそう言って、にっこり笑って手を振ると去っていった。
「遙さんって、遙さんって……」
 倭はそう言って、クスクスと笑いだした。倭は遙のまた新しい一面を見てしまったのだ。
「しかし、完璧に誤解されたな」
 倭は笑いながら言った。
「倭姫、人ごとだと思って面白がっていませんか。僕の身にもなってください」
「大丈夫さ、朝霞」
 一人黙っていた朝熊が言った。
「柚木野さんはきっと約束を守るさ。誰にもばれない」
 真面目な顔で言う朝熊だったが、倭も朝霞も、彼が面白がっていることを知っていた。はあー、と朝霞は大きく溜め息をついた。
「仮にも、陬生学園高等部学生会会長ともあろう朝霞さんは、こうやってみんなにいじめられて成長していくのでしょうか……。朝熊も真面目一徹の人だったはずなのに、僕を弁護しようとは思わない? 倭姫も倭姫ですよ。誰に影響されたのでしょうね」
「朝霞」
 と倭はクックッと笑った。
「何を言ってる? 朱に交われば赤くなるだろ」
 そう言って倭はまたクスクスと笑った。朝霞は憮然とした表情になったが、何も言わなかった。

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