◆
八雲は湖陵の膝に頭を乗せていた。湖陵が八雲の唇に軽く自分を合わせた。
「心配か、八雲」
八雲がその瞳で湖陵を見つめた。
「私たちが間違っていないことは判るんです。ただ、出雲を滅ぼすことは……」
そう言って八雲は爪を噛んだ。湖陵が黙って、その癖を止めるようにと手を取った。
「五真将と対立したくない、ということか、八雲。だが、我らが奈半利であるかぎり、五真将といずれは対立しなければならない。そうだな」
八雲は口を噤んでうつむいた。湖陵がその顔をそっと自分のほうに向けた。
「八雲、それほどに、頓原のことが忘れられないのか」
湖陵の八雲の顎においた手に力がこもる。八雲はその手を振り払うように起き上がった。
「別に…そういうわけでは……」
八雲が湖陵に背を向ける。湖陵の指先がゆっくりと八雲の背を滑った。
「お前に見向きもしない頓原が、私よりも気になるのか」
八雲の拳が床の上でギュッと握られた。
「頓原はお前のことを、単なる幼馴染としか思っていまい。それほどに思い続けていても、頓原は決してお前をそれ以上の関係とは思えまい。哀しいことだな」
湖陵は八雲の頬に手を添えると、自分のほうに向けさせた。八雲の瞳が閉じた。その瞼からすうっと涙が零れ落ちる。湖陵の唇がそれをそっと吸い取った。
八雲と頓原は2歳違いであった。隣通しの家だったため、幼い頃からよく遊んでいた。だが八雲の思いは、頓原には決して伝わらない。八雲が頓原のことを恋愛の対象として見ていることに、頓原は気づかない。子供の頃に戯れに頓原が言った言葉を、八雲はずっと忘れずにいるのだ。
『俺、八雲のことが一番好きだ』
湖陵のことを愛していた。だが、頓原は違う次元で八雲には忘れられない存在なのだ。頓原が奈半利でないことが、自分が奈半利であることが、それらが八雲には重くのしかかる。一番愛しているのは湖陵のことであった。だが、一番思っているのは頓原のことであった。湖陵にいくら優しく抱かれていても、心の奥底にいつも頓原がいた。湖陵にどれだけ酔わされていても、頓原の子供の頃の戯れの口づけが、八雲の唇に残っていた。そう、軽く触れただけの口づけであった。頓原の戯れが、八雲には忘れがたい現実として存在するのであった。
「八雲……」
湖陵は八雲からその気持ちのすべてを聞いていた。だから、八雲が今何を考えているのか判っていた。妬けない、と言えば嘘になる。だが頓原相手に、悋気を起こすのも的外れであった。自分一人を見つめてくれない八雲が悪いとは思わない。湖陵のほうが、自分にそれだけの魅力がないのだと思っていた。それを自分だけに向けさせるのが、湖陵にとって楽しみだと考えているのだ。
湖陵は八雲をジッと見つめていた。八雲が目を開けて、湖陵を見上げる。
「八雲、お前は奈半利といっても、奈半利ではない」
八雲がえっと目を見張った。
「お前の父親が奈半利であったから、お前も奈半利であることが当たり前と思っているだろう。だけど、お前は奈半利なわけではない」
「湖陵様、それはいったい」
湖陵の指先が八雲の前髪を掻き上げる。
「もし、我らが失敗したとしても、お前は責めを受けることはない。お前は私に脅されて仲間に入っただけのこと。お前は奈半利が何なのかも知らず、奈半利のことなど何も知らず、ただ私の側にいただけだ」
湖陵が八雲の頬を挟んだ。八雲はそのまま首を振った。
「いいえ、私は奈半利です。湖陵様とともにどこまでもまいります。もし、私たちが失敗したとしても、私だけ助かろうなどと、そんなことは出来ません。私は湖陵様を愛しているのですから。いつまでもお側にいることをお許しください」
湖陵が首を振る。
「お前が頓原のことを忘れられると言うのか」
八雲は言葉に詰まって首を振った。
「八雲、我らが失敗することはあり得ない」
湖陵は八雲のまた流れた涙を吸い取った。そしてギュッと抱き締める。いつまでもこのままの時が続けばいい。だが、それは止めることが出来ないのだ。時は、動き続けるからこそ、未来があり、流れ続けるからこそ、過去となるのだ。過去は必ず去り行き、未来は必ず向かってくる。
←戻る・続く→