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 陬生学園。
 いつものようにカフェテラスにいた朝熊と倭は、朝霞に出会った。
「朝熊、話があるんだが……。姫君、ちょっとの間、お父さんをお借りしますね」
 朝霞はそう言って、朝熊についてくるように促した。
「倭、判ってるな」
 朝熊の言葉に、倭はしかたなく頷いた。
「話というより、会ってもらいたい人がいる、ということなんだ」
 朝霞は先に立って歩きながら言った。朝熊は朝霞のいう人物を二人までに絞ることが出来たが、そのどちらなのかは判らなかった。朝熊が思っていたのは、霧島麻績と、陬生克雅の二人であった。
 朝霞は高等部の最上階までエレベーターで上がっていった。その階にあるのは、高等部の学生会室と文化行事に使われる小物などを置いている部屋しかなかった。朝熊は朝霞が会わせたい人というのが、霧島麻績であることをほとんど確信していた。そして、朝霞が開けた学生会室にいたのは、麻績一人であった。麻績は窓際に立っていた状態からくるりと振り向いて、入ってきた二人のほうに体を向けた。そして、少し緊張した面持ちで近づいてきた。
「あなたが伊勢の朝熊殿ですか。初めまして、霧島麻績です」
 そう言って麻績は軽く頭を下げた。
「朝熊です」
 朝熊は麻績に軽く会釈を返した。麻績は朝熊を見つめて、一つ息を落として、
「僕は戸隠のであり、……奈半利でもあります」
 と言った。朝熊は座りかけていた腰を止めた。そのまま麻績を見つめる。そして朝霞にも目を向ける。
「僕も知ったばかりだった」
 朝霞がポツリと言った。朝熊は座ると、再び麻績に視線を戻した。麻績も朝熊の向かいに座る。コホン、と朝霞が咳をした。朝熊が見ると、
「それじゃあ、僕は席を外しておこう」
 と朝霞は言った。朝熊は頷いて、
「では、朝霞、倭を見ていてくれないか。ただし、私が何のために麻績殿に会っているのかは、内緒だぞ」
 と言った。朝霞は少し驚いた顔をしていたが、
「判った」
 と言って出ていった。朝熊は麻績に向き直った。
「あなたの用件を聞く前に」
 と朝熊は口を噤んだ。麻績の表情に心配そうなものが浮かぶ。
「あなたが戸隠の一族であり、かつ、奈半利でもあるということは本当なのか」
 麻績の顔にやはりそうか、というような表情が浮かび、麻績は頷いた。
「ええ。私は父が死ぬまでは知らなかったことですが、霧島家は戸隠の中にいて、奈半利であることを誇りに思っていた家だったようです。ただし、私の父はそれを拒んで殺され、私もそれを強要されるところでした。それを救ってくれたのは、あなた方なのですね」
「麻績殿、あなたは奈半利であることを知った上で、戸隠として生きようとした、というわけか。しかし、あなたには祖先たちの奈半利である何かがあるとは考えないか。もしかすると、それがいつか目覚めるのではないか、と」
 麻績は朝熊の思いがけない言葉に、しばし沈黙していた。その目は膝を組んだ上に置かれた、軽く絡めた自分の指先を見つめているようであった。
「そうなることがあり得る、と朝熊殿は思っているのですか」
 視線を凍らせたまま、麻績は言った。
「可能性としてあるのではないか、と思っている。ただし、私もそうなることのないことを祈っているが……」
 麻績がふいっと朝熊に視線を向けた。朝熊はまっすぐに麻績を見ている。
「私が戸隠の奈半利のように、伊勢にも奈半利がいる、ということですか」
 朝熊は頷いた。
「自らの意志とは別に、奈半利に操られるわけですか。しかしそんなことが出来るのでしょうか。結局は、自分の意志の強さだと思いますが……」
 麻績の言葉に、朝熊はにっこりと笑った。きっと麻績は奈半利になることがないだろう。彼はそれだけの意志の強さを持っている。自分もそれに負けることはない。そう、倭がいるかぎり。だが、彼と自分の置かれた状況は決して一緒ではないのだ。
「そうだな。私もそう思う。そしてあなたはきっと大丈夫だ。余計なことを言ってしまって、混乱させてしまったな。その代わり、と言っては何だが、あなたの申し出には快く承諾の返事を言わせてもらうよ。私もそのほうがいいと思うし」
 麻績が一瞬目を見張って、肩を竦めた。
「僕の言いたいことが判っている、ということですね。僕にそれが可能だと思いますか。朝霞のように制御出来ないということはないのでしょうか」
 朝熊は麻績をジッと見つめていた。麻績の水浅葱の《気》を。
「綺麗だな、あなたの水浅葱の《気》は。朝霞は天色の《気》。戸隠は水色に近い色を持っている。まるで伊勢の巫覡のようだ。麻績殿、あなたにはきっと可能だな」
 麻績はパッと立ち上がって頭を深く下げた。
「ありがとうございます」
「そうだな、麻績殿」
 朝熊はそう言って、麻績に座るように促した。そして両の手のひらを少し離して自分の胸の前に置くように言った。麻績はその通りにした。
「そして、目を閉じて手のひらに体内の血をすべて集めるように、そう感じるように」
 麻績は判らないままに、朝熊の言う通りに考えるようにした。朝熊は驚いた。麻績の《力》の大きさと、その呑み込みの早さに。麻績の手のひらの間には、水浅葱の球体が発生している。決して大きくはないが、それは大きいからといって《力》が大きいわけではないのだ。麻績の場合は、小さいが《力》が詰まっている感じであった。
「麻績殿、今度は反対に最初の段階に戻すように、体内に血を戻すように」
 麻績がその通りにして、元の状態に戻ったことを確認した朝熊は目を開けるように言った。
「大丈夫。あなたはすぐにでも《力》を使いこなせるようになる」
 朝熊の言葉に、麻績は僅かに笑った。《気》を動かすのは、慣れないと疲れるものであった。
「今日はとりあえずここまでだ。それじゃあ、行こうか」
 と言って朝熊は立ち上がった。麻績がえ、という顔で朝熊を見上げた。
「カフェテラスに行って、倭を紹介しよう。倭のことが気になっていただろう。何者だろうか、と。倭は伊勢の王族の一人。と言っても、連なっているという程度だが」
 麻績が立ち上がった。学生会室を出ながら、朝熊は麻績に言った。
「一つだけお願いがあるんだが。倭にはあなたに《力》の使い方を教えていると知られたくないんだ。それだけは悟られないようにして欲しい」
 麻績はそれの意味が判らなかったが、素直に頷いた。そのことは、自分には何の関係もないことなのだ。知る必要もないことなのだ。
 エレベーターで降りる間、麻績は朝熊を見つめていた。180pの麻績より7pほど朝熊のほうが高かった。体格的には二人とも痩せ型であまり変わらないようだが、朝熊のほうが痩せていた。と言っても、貧弱な感じはなく鍛えられているのだが、服の上からはそれがよく判らなかった。
「伊勢にとって、布城くんは、何ですか」
 間もなく一階に近づくのを感じながら、麻績は言った。朝熊が麻績に視線を向ける。エレベーターが一階に着いたことを知らせ、ドアが開いた。
「奇跡」
 朝熊が先に出ていく。それを追いながら、麻績はその言葉を聞いたような気がした。
「朝熊」
 外に出た途端、カフェテラスの椅子に座っていた倭が振り返って叫んだ。朝霞はその隣で麻績に笑いかける。朝熊と麻績は同じテーブルに座した。
「倭、こちらが戸隠の霧島麻績殿」
 朝熊が、倭が何か言う前に麻績を紹介する。倭は麻績に笑いかけながら観察していた。
「よろしく、麻績、倭だ」
「よろしく、倭姫。霧島麻績です」
 そう言って麻績は目を細めた。遠くから見ていてもそうではないか、と思っていたが、倭の美少女ぶりに感心していたのだった。
「綺麗だ。近くで見ると、また特に綺麗だ」
 言ったのは倭であった。うっとりと麻績を見つめている。朝霞は驚いて朝熊を見たが、朝熊はクスクスと笑った。
「確かに麻績殿は綺麗だが、倭が言ったのは、彼の《気》のことだろう。朝霞も今は見えないかもしれないが、見たことはあるだろう。水浅葱の《気》を」
 ああ、そうか、と朝霞は納得した。確かに自分の《気》が高まっている時には、他の人の《気》を見ることが出来る。麻績の《気》が水浅葱ということを朝霞は知っていた。
 倭はなおも麻績を見つめていた。透明感のある水浅葱は、ともすれば透明感のある水色に見えないことはない。伊勢の巫覡の勾玉の色であった。巫覡に会ったのはたった一度きりであった。だが、その色を一生忘れることが出来ないだろう。もう決して現れることのない色なのだ。麻績の《気》はそれを思い出させる。
 朝熊にはその倭の気持ちが判った。だから黙って倭を見つめていた。彼女の肩に伊勢がかかっているのなら、自分はそれを出来るだけ軽くするようにするだけであった。すべてを自分が代われるわけではない。だから、倭しか出来ないこと以外は、自分が背負うのだ。崇が伊勢の奇跡ならば、倭は伊勢の希望であった。奇跡は最初からなかったものと考えることが出来る。だが、希望は決して失くしてはならないのだ。誰の胸の中にも希望はあり、それがなくなった時、失望は回りに影響を及ぼす。
 麻績を見つめている倭は、傍から見れば、恋する乙女の姿であった。三人はそれに気づいて、麻績は遙が今日はカフェテラスにいないことを感謝した。


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