そして、越知の姿は夜の町にあった。青磁色の球体の中にいるわけではなく、ぶらぶらと歩いていた。越知の目はときおり、一人の女性に向けられる。友人との夕食をすませ、家路についている柚木野遙であった。越知は人通りが途切れるのを待っていた。麻績のところで、自分の結界に難なく入ってきた遙であった。もしかすると、《力》が全く効かないかもしれない。それならまた考えればよかった。越知のすべき行動は、ただ一つであった。遙を亡き者にする。それだけであった。
 人通りがふと途切れた。チャンス、と越知は思った。両手を合わせ、その間に《気》を高めた。紅赤の燃え盛る炎がそこに発生する。それを遙に投げつけようと思った瞬間、
「駄目じゃん、奈半利の越知。関係ない人を巻き込んだらいっけないよぉん。奈半利はそれほどに卑怯者なわけ?」
 のほほん、とした口調で後ろから声を掛けられた。ハッと振り返る越知の近くに立っていたのは、相変わらずのGジャンにGパン姿の頓原であった。にこにこ笑いながら、越知を見つめている。ポケットに手を突っ込んだままで、頓原は越知にぴょこんと頭を下げた。
「出雲五真将の頓原でーす。よろしく」
 人を小馬鹿にしたような言い方で頓原は越知に接していた。オレンジ色の髪が紅赤に染まったように見える。彼の《気》が一挙に膨らんだのであった。頓原はそれに気づかないのか、全く構えていない。
「越知、お前には俺が倒せない」
 頓原の笑いながら言う言葉を聞き流して、越知の紅赤の炎が頓原を襲った。越知の炎は頓原を通り過ぎることなく、彼を焼き尽くすまで頓原を包み込んだままであった。
「なんや、しょうもない」
 越知は頓原が、何の反撃もしないまま炎に包まれたのを見て少し落胆したが、遠くに行ってしまった遙を追いかけることにした。その足を踏み出そうとした越知は、またしても頓原の声に引き止められた。
「だから、言ったろ。お前は俺が倒せないって」
 ギョッとして越知は振り返る。そこに立っているのは無傷の頓原であった。そして左手をポケットから出した。握っていた手をパッと拡げる。そこに白緑の炎が小さく現れた。
「炎ってのは、こういうのを言うんだよ」
 頓原が左手をそっと振った。白緑の小さな炎はふわふわと、しかし正確に越知に向かって近づいた。越知は自分の紅赤の炎を出してそれを頓原の炎に向かわせる。だが、越知の炎は頓原の炎に易々と飲み込まれて、しかも頓原の炎のエネルギーになった。いきなり大きくなった頓原の炎は、越知を包み込み、越知はその炎に体の中から焼かれていた。
「お前の炎なんて、俺にしてみれば、春の陽射しみたいなもんさ」
 越知のもがき苦しむ姿を冷やかに見つめて、頓原は言った。
「でもまあ、潜戸には無理だっただろうけどね」
 潜戸を殺したのは越知の炎なのだ。外傷のないままに綺麗なままで死ねたのは、潜戸にとって幸せだったのか。そうであって欲しい、と思ったのは、弟の船通であって、頓原は僅かもそんな気持ちを持つことはなかった。
 頓原は何を思ったのか、白緑の炎を消した。いきなり熱さが消えて、越知は驚いて頓原を見た。だが、口に出した言葉は、
「もう、終わりか。でかいことを言ってたわりには、実際は実力が伴わないってやつか」
 というものであった。頓原はフフンと笑って、
「勝手に笑ってろ。外傷のないまま綺麗なままで殺すのが嫌になっただけさ。苦しみは少し和らぐかもしれないが、それは残念だけど……」
 と言った。ボキッといきなり音がした。ウッと唸って越知の右腕がダランとなる。骨が折られたのだ。またボキッと音がして、越知の左腕がダラリと垂れ下がる。
「反撃したかったら、いつでもどうぞ。でも、自殺は許さないからね。苦しみと自分の体がバラバラになる様子を最期まで見せてあげるから」
 これならばさっきのほうがましだった、と越知は思った。だが頓原の言った通り、自分で苦しみから逃れることは出来なかった。ただ頓原がそれを止めるまでは、越知は苦しみ続けるのだ。そう、頓原がそれに飽きるまで続けられるのではないか、とさえ越知は思った。もはや、オレンジ色の髪はその精彩を欠き、青い瞳は開くことがままならなかった。
 頓原は左手を天高く掲げた。越知はまだ息をしている。頓原が死を許していないからだ。それにやっと終わりを告げようとしたのであった。越知にはすでに考える気力がないようだった。だが、それでも最期に頓原に向けた視線だけは、燃えているようであった。それに頓原は満足していた。これほどに痛めつけられてもまだ、自分を失わずにいる越知に僅かなりとも感服した、ということであった。だからせめて頓原は、自分の最高の技で相手に死を与えようと思ったのだ。頓原の天に延ばした左手に向かって、稲妻が落ちる。そのエネルギーをそのまま越知に向けた。そしてふうっと頓原は息を落とした。最期まで全く命乞いをしなかった越知に落雷が落ち、そして彼の苦しみは永遠になくなったのだ。
 頓原は遠くに視線を転じる。そこに何も知らず家路に急ぐ遙の姿があった。ふと頓原の心の中を現しているように、左手に白緑の球体が現れた。それに気づいて、頓原はフッと笑ってそれを消した。本当に遙は、何の《力》にも干渉されないのか。その答を知りたかったが、どうにかその気持ちを抑えたのだった。そして彼の結界も消した。遠くに夜の町のざわめきが響いていた。
「頓原」
 頓原の後ろで声がした。頓原は声を掛けられたのが当たり前のように振り向いた。
「何故いつも俺を尾ける?」
 頓原に声を掛けたのは斐川であった。斐川は頓原の回りに視線を漂わせながら、心の中で思っていることを言うべきかどうかを悩んでいるようであった。頓原は斐川が何も言わないので、そのまま背を向けた。
「頓原」
 と斐川がその背に声を掛ける。
「何故?」
「何故?」
 頓原が振り向いて同じ言葉を吐いた。
「何を考えているわけ。いつも自分一人で何もかも抱え込んで、何故、頼ってくれないのよ。そんなに私たちはあなたにとって役立たずなの?」
 斐川の目に涙が光っている。それに気づいて頓原の瞳が揺れたが、斐川はそれに気づかなかった。
「それに……殺しを楽しむなんて。以前の頓原なら、そんなことはしなかったはずでしょ。何故なの」
 頓原が斐川から目を逸らして歩きだした。頓原の表情は斐川には見えない。
「お前たちを頼りに出来ないから、俺が一人で頑張っているだけさ。斐川、お前も《力》がない、と諦めていないで、もっと努力したらどうだい。船通にも言ったけど、お前たちはまだ《力》が出し切れてないさ。それに気づいて、出雲五真将を名乗れた本当の意味を知るんだね。今のお前たちは、俺には全く信頼出来ないから……」
 頓原の口調は冷たいものだったが、その表情は哀しげで苦しげで、そんないろんなものが入り混ざったものになっていた。しかし、背中を向けられている斐川は見ることが出来なかった。
「頓原……」
 斐川は遠去かる頓原の背を見つめていた。
「どうして……」
 叫んでみても、頓原を振り返らせることが出来ない。
「いつか、しっぺ返しを受けるわ、きっと。私は」
 それを見たくない、それを斐川は望んでいるわけではない。そうなって欲しくない。しかし、頓原は自ら望むように、堕ちているようであった。


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