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「姫君、お隣に座ってもよろしいでしょうか」
朝霞はにっこりと笑って倭に言った。倭が微笑んで促す。朝霞は倭の隣の椅子に座った。倭は目を細めて朝霞を見つめた。彼の《気》が今は僅かなのに気づいたが、何も言わなかった。その変化は朝熊が理由まで知っているようだから、自分が聞くことはない、と思っているのだ。朝霞は倭の制服姿を見つめて、
「姫君、制服だけでなく完全に学生になったらどうです。陬生学園はいつでも編入出来ますよ。学園生活は楽しいですけどね」
と言った。倭が驚いた顔で朝霞を見た。
「私が学生?」
それは倭にとって、確かに憧れの対象になっていた。だが、自分はここにいる学生たちとは住んでいる世界が違うのだ、と諦めていた。倭が学校に行くことは、倭たちの世界とこの世界との接点を作ってしまう。それは、あまり感心出来ることではなかった。戸隠のように、何百年もの間にこの世界と溶け込んでいけばまだいい。だが、伊勢はそれを拒絶し続けていたはずだ。
「私には……出来ないさ」
倭はそう言って朝霞から目を逸らした。朝熊が口を開いた。
「朝霞、聞きたいことがあるんだが」
朝霞が朝熊のほうを向いた。そして思い出したように笑った。
「そういえば朝熊、ナンパされたんだって。聞いたんだけど、柚木野さんに。すごい美人だったそうだね」
倭がえっと朝熊のほうを向いた。朝熊は渋い顔をして、
「臙脂のチャイナドレスの美人のこと」
と倭に言った。倭はああ、と納得した。朝霞は面白そうに笑って、
「てっきり朝熊の好みは美人なのかと思ったけど、違ったのかな。姫君も美人だし」
と言いかけるのを朝熊は、
「朝霞」
と止めた。倭が朝霞に視線を向けて、
「私が? 朝熊の好みって?」
と言う。きょとんとした表情の倭を、朝霞は見つめて、
「姫君にとって朝熊は大切な人でしょう。それとも、他にもっと大切な人がいますか」
と言った。倭は即座に、
「朝熊は一番大切な人だよ。他には、他に大切にしたいのは、伊勢の王国だな」
と答えた。
「朝霞、私が質問したいんだけどな」
朝熊は、このままだと朝霞はとんでもないことを言いだすのではないか、と思って口を挟んだ。朝霞は倭に見えないように、朝熊にウィンクをしてみせた。それに朝熊は、こいつはこんな奴だった、と心の中で溜め息をついたのだった。
「朝熊、その前にあの、霧島麻績、という人について聞きたいな。なあ、朝霞、彼は何者だ。彼も戸隠の一族なのか」
朝熊の心のうちを知らず、倭は朝霞に尋ねた。朝霞は頷く。
「姫君には判って当然でしたね。急に彼に《力》が現れたのを訝ったのでしょう。戸隠にはそういう人がたまにいるのですよ」
朝霞の答に倭は満足して朝熊を見た。
「私も聞きたいのは人のことだが、彼女のことだ」
朝熊はそう言って遙を見た。朝霞が眉をひそめる。そして、真面目な表情を浮かべると、
「柚木野さんのことか。彼女の何を聞きたい。生年月日や趣味、特技に関しては、僕のメモリーに入っているが、スリーサイズは想像でしか知らないぞ」
と言った。朝霞の言葉に朝熊は二の句が継げなかった。倭は、と見るとこちらは面白そうに朝霞を見ている。倭の前では(と言ってもまだ二度目だが)礼儀正しく振る舞っている朝霞が、実はかなりいじめっ子な性格をしているのではないか、と思っていたのだ。
「それに、彼女はお手つきだぞ」
朝霞は朝熊の困った顔を見て笑いを浮かべる。何ともいじめ甲斐がある相手ではないか、などと思っていたのである。朝熊も朝霞の考えが判るのだが、持って生まれた性格からか、つい朝霞の思う通りに反応してしまうのだった。
「彼女は誰だ」
落ち着きを取り戻した朝熊は、低い声で言った。朝霞はその真剣な声に真面目に聞こうと思った。
「誰って、彼女は柚木野遙さんだ。大学部3年で、フルート奏者としては日本を代表する人だよ」
「彼女はどこかの一族の出身なのか?」
朝霞は驚いて朝熊を見た。倭は黙って聞いている。朝熊が遙に興味を持っていたことも知らないし、遙に会ったことも聞いていなかった。だが、朝熊の態度でかなり重要なことを示していることが判ったから、何も口を出すまいと思っていたのだ。
「彼女はどこの一族でもないはずだ。まさか、彼女にも《力》があるということか。姫君、そうなのですか」
朝霞が倭に聞いたのは、倭が他人の《気》を見ることが出来ると言っていたからであった。倭は首を振った。
「いや、彼女には普通の人以上の《気》を持ってはいない」
朝熊は指を組んだ上に顎を乗せた。
「我らは結界を張ることが出来る。その意味は、邪魔を入れないことでもあり、関係ない人を巻き込まないためでもある。結界を作った者が入れようとしないかぎり、誰も入れない」
朝霞は頷いた。自身は《力》を制御出来ないから、結界も作ることが出来ないが、その理屈は知っていた。
「結界を破るためには、内側からなら結界を作った相手を倒すしかない。そして、外側からならほとんど不可能だ。結界を見定めることが出来、さらにそれを破るとなれば、己の渾身の《力》を持ってするしかない。それで結界が破れたとしても、無事にいられるだろうか。他人の結界を外側から破るには、かなりの《力》の持ち主であっても、その身を犠牲にしてでないと可能ではない。その点では、内側から破るほうがたやすい」
朝熊はそこで一旦言葉を切った。二人は朝熊の次の言葉を待った。
「彼女は結界を破ることが出来る。それもいとも簡単に、そこに結界がないように、結界の中に入ってくることが出来たんだ」
「柚木野さんが?」
と言ったまま朝霞は次の言葉が出なかった。
しばらく三人とも黙ったまま、誰か何か言うのを待っているようであった。
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