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そして、次の日。陬生学園高等部学生会室。
朝霞は珍しく職務に励み、麻績は珍しく外をぼうっと見ていた。朝霞が一段落して麻績を見た。
「麻績」
と呼び掛けたが返事がなかった。そこで、朝霞はそうっと近づいて、麻績の耳元で、
「麻績くん」
とささやいてフッと息を吹きかけた。ビクッとして麻績が怒った顔で振り向いた。
「朝霞」
と言い掛けるのに、朝霞は指先で麻績の首筋をすうっと撫でた。
「だって、麻績くんてば呼んだのに返事をしないもの。考え事か?」
さらに悪戯しそうな朝霞の手を押さえて、
「返事をしなかったのは僕が悪かったですね。仕事は済んだのですか」
と麻績は言った。朝霞は自分の机の上を指さした。しっかりと処理済になっている書類を見て、
「これが毎日とは言わないですけど、二、三日に一度だったら、僕の苦労も軽くてすむと思うんですけどね」
と言った。
「努力しているんだよな、これでも」
と朝霞は笑った。だがすぐに真面目な顔になった。
「麻績、これは何?」
朝霞は麻績の回りを指さして言った。麻績は首を傾げた。ふうん、と朝霞は頷いた。
「そうか、麻績には見えないんだな、この水浅葱の《気》が。僕にも今は見ることが出来ないけど、麻績、お前に《力》が出てきたのはいつのことだ?」
麻績は朝霞を見つめた。
「朝霞には見えたのですか、僕の《力》が。……僕に《力》が出てきたのは、父が亡くなった時です」
朝霞は麻績の瞳の奥に微妙な揺らめきがあったのに気づいた。麻績は何かを隠しているのではないか、それを朝霞は思った。
「麻績」
と朝霞は麻績の肩を抱こうとして、麻績が視線を落としたことに気づいた。その視線の先に崇がいた。
「あれ、崇ちゃんじゃないの。今日はクラブに行くのが遅いね」
と朝霞は言いながら、麻績の肩を抱いた。ビクッと麻績が震えたのを、朝霞は自分が肩を抱いたからだと思った。麻績が朝霞の手を払おうせずに、朝霞に視線で促した。
「何?」
麻績が目で示した場所には、倭と朝熊の姿があった。それが、という顔で見る朝霞に麻績は、
「彼らは朝霞の知り合いですか」
と言った。朝霞が麻績をジッと見た。
「彼らが気になるのか。何か不審な行動でもしていたか」
麻績は朝霞から目を逸らした。
「この前からずっと彼らはいる……布城くんをいつも見つめている……」
麻績は呟くように言った。それに朝霞は即答しなかった。確かに気をつけていれば、彼らがこの時間帯にいつもあのカフェテラスにいるのは誰でも知ることが出来た。ここからはまたよくその場所が見えた。だから、麻績がそれに気づいたとしてもおかしいことではない。だが、朝霞は何かが引っ掛かった。確かにあの二人は目立つが、崇をいつも見ていることは、麻績がそれを気をつけて観察していないと気づかないはずだ。
「麻績……彼らは僕の友人だよ」
そう言って朝霞は、麻績の肩を抱いた手を何気なしに麻績の頬に滑らせた。そしてそのまま手を背中に滑らせる。爪を立てるように滑らせる朝霞に、麻績は身をよじって拒んだ。
「朝霞、僕にはその気はない」
さらに下に滑る朝霞の手に驚いて、麻績は、
「朝霞」
と叫んだ。目の前に同じ高さの建物がないとはいえ、見上げさえすれば学生会室がよく見える。二人の行為が衆目に曝されるのだ。そんな問題ではないと思うが、麻績はそう思った。朝霞はどういう風に手を動かしたのか、いつの間にか麻績の両手首を押さえていた。
「麻績、何を隠している。僕に秘密を持つというのか」
麻績は手首を振り解こうとして、朝霞の言葉に動きを止めた。朝霞が、
「別にお前を手込めにするつもりはないよ。それに麻績、僕は平和主義者だからね。友好的な話し合いをしたいと思っているんだよ」
と言って麻績の手首を掴んでいる手に力を込めた。痛さに思わず声を洩らす麻績に、
「麻績くん、だから僕は有効的な攻め方を知っているんだよ。克雅様に骨の髄まで教え込まれたからね」
と言って白旗を上げるように促した。麻績は唇を噛み締めた。朝霞は次の行動を起こそうとして、何故かパッと手を離した。不審そうに朝霞を見る麻績だが、赤くなっている手首をさすった。そして、何故朝霞が自分から離れたのかに気づいた。
ノックの音がした。朝霞が返事もせずにドアを開けると、そこに立っていたのは遙であった。
「これは、柚木野さん。また麻績が紅茶を頼みましたか」
邪魔をされた朝霞だが、それでも極上の笑顔を浮かべて遙に臨んだのはさすがであった。朝霞が朝霞である所以であった。
「いいえ、今日は私が自主的にですわ。たまにはアールグレイ以外のものを調合してみたくて試していたのですわ。それに会長、今日は問題ではありませんから、これを受け取っていただけたらすぐに失礼しますわ。気がお向きになったら、カフェテラスにいらっしゃってくださいね。朝熊さんもいつもいらっしゃっていますから」
遙の差し出すお盆を受け取りながら、
「おや、柚木野さんは朝熊をご存知だったんですか。まさか、彼があなたをナンパしたんじゃないでしょうね」
と驚いた。まあ、朝熊がそれをするわけがないのは判っていたが。
「あら」
と遙は明るく笑った。
「ナンパされてたのは、朝熊さんのほうですわ。臙脂のチャイナドレスを着た美しい方でしたわ、相手の方。でも、朝熊さんは好みでないとおっしゃってましたけど」
クスクス笑って遙は朝霞に頭を下げて、麻績にも笑いかけて去っていった。朝霞は笑顔のままで振り向いた。
「いいところで邪魔が入ってしまったな、麻績。しかたない、座れよ。せっかく柚木野さんが持ってきてくださったんだ、いただくことにしよう」
そう言って朝霞はテーブルにお盆を置いた。朝霞が椅子に座ると、麻績も向かいに座った。朝霞の入れてくれた紅茶を麻績はジッと見つめた。
「麻績、冷めるぞ。お茶請けに何かなかったかな。ヨックモックは食べてしまったし、そうそう、そう言えば今日の調理実習で作ったというクッキーがあったな」
独り言を言いながら朝霞は戸棚の中からお皿を出してきた。ちなみにそれは、初等部の生徒が作ってきたものだった。
「さあどうぞ、麻績くん」
そう言って朝霞はクッキーを差し出した。しかし、麻績は微動だにしなかった。朝霞は溜め息をついた。
「僕はさ、お前が苦しんでいるように思えるんだ。それは、別に《力》が急に現れたから、ではない。他に何か原因があるような気がするんだ。そして、それは崇に関係することだろう。うーん、上手く言えないけど、僕はお前に普通に生きていって欲しいんだ。僕にはお前に現れた《力》が、どんな性質のものかは判らない。でも、僕のようなものではないだろう。だから、その《力》など気にせずに今まで通りに生活出来るのではないか。お前には言わなかったけど、この学園を中心にしてちょっとした事が起こりつつあるんだ。それにお前を巻き込みたくなかった。でも、お前が崇のことを気にしているのなら、もしかして知ってしまったのかな」
いつものおちゃらけた態度とは程遠い真面目な表情で、朝霞は麻績を見つめた。麻績が驚いた顔を朝霞に向ける。朝霞は嘆息した。
「そうか、どの程度か判らないけど、巻き込まれていたんだな」
「朝霞、もしかして、布城くんと毎日一緒に帰っていたのは、彼を守るため……だったのですか」
朝霞は麻績に頷いてみせた。麻績がカップに触れた手を震わせていた。僅かな振動音がするのには目を向けず、朝霞は言葉を続けた。
「麻績、僕はね、僕の《力》を自分で制御したい。克雅様の話によると、それに何らかのきっかけを作ってくれるのが崇だそうだ。確かに崇に会ってからというもの、僕は変わった。一番変わったのは、《力》のサイクルが変わったことだろう。崇によって僕に変化が起こっているのは、お前にも指摘されたことだ。だから、僕は崇を守り通す。僕を今の状態から救ってくれるのが、崇かもしれないからだ。崇を守っているのはそれが理由だ。麻績、お前が何を秘密にしているか、本当は聞くつもりはないさ。だけど、なるべくならこのゴタゴタに巻き込まれないままでいて欲しい」
麻績はカップから手を離して、右手で左手をギュッと握り締めていた。
「朝霞、布城くんに何故最初に魅かれたのです」
顔を上げないまま麻績は言った。朝霞はふと窓の外に視線を向けた。
「何故かな、その理由が思い当たらないんだ」
朝霞の答に麻績はさらに、
「朝霞の《力》とは関係なくても、布城くんは朝霞にとって大切な人ですか」
と問うた。朝霞は麻績に視線を戻した。思案している瞳が、麻績を映していた。
「判らない……」
ポツリと朝霞は言った。麻績が顔を上げた。
「朝霞にとって、大切な人は幾人います? その人に危害が加えられるのを黙って受け入れられますか。自分を犠牲にしてまでも守りたい人が、朝霞にはいますか」
朝霞は息を呑んだ。そうか、と合点したのだ。麻績にとって大切な人が誰かは知らない。だが、その人を守るためなら、麻績は自身を犠牲にすることを厭わないだろう。そしておそらくは、朝霞に何も言えないのは、彼に敵対する立場に立たされてしまったからなのだ。それに朝霞は気づいた。
朝霞は紅茶を飲み干した。美味しいはずの紅茶が、やけに舌に突き刺さった。
麻績も無言であった。朝霞が何も言わないのは、多分麻績の立場を理解したからだ。それを麻績は判っていた。だから、朝霞の次の言葉には驚いた。
「麻績、僕はお前を信じているよ。お前は、僕の一番大切な親友なんだから。崇とは違う意味で、僕はお前を大切に思っているんだ」
絶句して見つめる麻績に視線を合わすことなく、朝霞は立ち上がった。そしてお盆を持って学生会室を出ていく。一人残った麻績は、カップの中の紅茶を飲み干した。砂糖など入れていないのに、やけに甘い気がした。
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