◆
魚梁瀬が麻績を訪ねたのはその夜である。檮原の友人という魚梁瀬を、麻績は玄関払いはしなかった。奥の応接室に通された魚梁瀬は、入ってきた麻績をほう、と見つめた。家の中では和服姿の長い髪を後ろで一本に三つ編みして、麻績は鑑賞に堪える人物であった。麻績は軽く頭を下げて、魚梁瀬の前に座った。
「僕に御用というのは、檮原様とこの前の越知さんと同じことですか? それならば、お二人に断ったはずですが。僕は戸隠の一族であって、奈半利とは何の関係もありません」
「私は奈半利の王、魚梁瀬という。麻績、お前の祖父は、奈半利であることを誇りに思っていた人物であると聞いているぞ。その血をお前も継いでいるのではないか」
麻績はフッと笑った。
「それを言うなら、僕は父の血を継いでいますからね。そして、僕は祖父と二人きりになったことがありませんから。祖父は父には奈半利のことを喋っていたでしょうけど、父は祖父が僕に奈半利のことを喋ることを嫌っていたのでしょう。だから、僕は奈半利のことを全く知りません。父ならば、それを言っても可能性があったかもしれませんが、僕には全く効果がありませんよ。檮原様が父を動かそうとするのだったら、僕を利用するんでしたね。たとえば、僕を誘拐するとか。檮原様は正攻法で行き過ぎましたよ」
魚梁瀬はふむ、と麻績を改めて見た。麻績の言うことは正しい。越知がそれを悔やんだように、檮原だけがその可能性を抹殺していたのだ。
「奈半利にとって、お前は大切な駒なのだ」
「そうですか。でも僕にとっては、奈半利は大切なものではありませんし、僕は他人の駒であることに甘んじることは出来ません。僕が認めた人以外はね」
麻績はそう言って、魚梁瀬をジッと見つめた。
「ですから、僕に何を言っても無駄ですよ」
微動だにせず麻績は言った。
「そう言えば、麻績、柚木野遙とはどういう関係なのだ」
麻績の顔色が明らかに変わった。魚梁瀬はそこで光の出口を見つけた気がした。迂闊でもあったが、魚梁瀬は遙の使い道を今気づいたところであった。麻績の顔色が変わったのも、その可能性に気づいたからであった。
二人ともしばらく無言で見つめ合っていた。魚梁瀬はこの画策が巧くいくかどうかは、しかし半信半疑であった。遙には何かしら《力》がある。それを麻績が知っていれば、遙を使うことが出来ないのだ。麻績がそれを知らないのならば、奈半利は麻績を手に入れることが出来るのだ。さて、どっちだ、と魚梁瀬は麻績を見つめ続けた。
「遙さんがどうかしたのですか。彼女は学校の先輩ですが……」
麻績はとりあえず惚けることにした。魚梁瀬が遙のことを聞いたのは、越知が来た時に遙が現れたから、という理由のはずであった。それ以上の理由があってのことだとは麻績は考えたくはなかった。それにもし、魚梁瀬がその可能性を思いついていないのなら、麻績のほうからそれを指摘する必要はなかった。
「ほう、お前の学校の先輩か。それだけなのか」
「そうですが」
魚梁瀬がニッと笑った。麻績は努めて表情を隠すようにしていた。
「では、柚木野遙が別にどうなっても構わない、ということだな」
そう言われて覚悟はしていたが、さすがに麻績は顔色を変えた。魚梁瀬はフフッと笑った。
「麻績、奈半利は一人の人間を手に入れたいと思っている。そして、お前は彼に不審を抱かすことなく近づけるのだ」
麻績は瞳に怒りを浮かべたまま、魚梁瀬を見つめていた。魚梁瀬はそれに満足していた。
(これで、布城崇は奈半利の手に入る)
麻績が遙のことを大切に思うかぎり、奈半利は麻績を使うことが出来るのだ。
「麻績、柚木野遙のことについては、心配せずともよい。お前が奈半利であるかぎり」
麻績はふうっと吐息を落とした。それにつれて、後ろの三つ編みが大きく揺れた。
「それで、僕は何をすればいいのですか」
諦めに似た表情と口調で麻績は言った。
「奈半利が手に入れたいのは、布城崇」
え、と麻績の口から洩れる。
「布城くんを? 何故……ですか」
「何故か、聞きたいか」
魚梁瀬はジロッと麻績を見た。聞くことは完全に奈半利になること、それを魚梁瀬の目が語っていた。麻績は目を逸らした。
「麻績、今日は帰ろう。お前も考える時間が必要だろう」
そう言って魚梁瀬は立ち上がった。続いて立ち上がりながら、麻績には考えても選択出来る道は一つしかないような気がしていた。
魚梁瀬は立ち去った。それを麻績は見送った。
←戻る・続く→