頓原はチッと舌打ちした。目の前には船通と魚梁瀬の姿があった。目の前といっても、相手からは見えない場所にいたのだが。この前に船通に対して、お前を助けない、とは言ったものの、祖谷を殺したのは船通であって、その復讐を奈半利がするとすれば、狙われるのは船通であった。だから、頓原はしかたなく船通を守っていたのだ。
「俺って優しいもんな」
 そう言って一人で肩を竦めてみせた。知っている人にしてみれば、また冗談ばっかり、と言われそうな台詞を吐く。そう、しかたなく、とは思っているが、実のところ、船通を張っていれば、次の奈半利が現れると踏んでいたからなのだ。そして、何と大物が現れたではないか。
「ふうん、奈半利の王か」
 頓原の目が輝く。船通は必死に眼鏡を外そうとしていた。それに気づいて、頓原は唇を歪めた。何も口には出さなかったが、蔑むような視線を船通に向けていた。魚梁瀬の右手にはバーガンディに輝く剣が握られており、船通の命は風前の灯であった。頓原は船通を助ける気などなさそうであった。魚梁瀬が船通を倒した後に、頓原が魚梁瀬を倒す、そうしようかな、と思っていたのだった。
「何?」
 思わず頓原は叫んでいた。それが起こる寸前、眩しい光が二人を包んだ。それが自分に届く一瞬前にとっさに張った障壁が、頓原から光を遮った。頓原の白緑の障壁はすぐに消えた。消すつもりはなかったが、消えてしまったのであった。しかし、その白緑の障壁のお陰で、二人よりは先に視界が開けた。
「朝熊……」
 二人に向かって光を放ったのは、朝熊であったのだ。
「光、それが朝熊の《力》なのか」
 呟くように頓原は言った。それがすべてではないかもしれないが、頓原には朝熊の《力》が途轍もなく大きなものだということが判った。
「とても、敵にはしたくないな」
 一時的にしろ手を結んだのであるから、敵ではない。だが、将来もこのままとは限らなかった。今のところは敵ではない、ということが、頓原をホッとさせた。
 魚梁瀬は明らかに、朝熊に興味を持ったようであった。当たり前であろう。船通の《力》は小さいものであって、魚梁瀬にとってみれば、赤子の手をひねるようなものであった。だが朝熊はそうではなかった。魚梁瀬には、船通の姿はもはや見えなかった。二人が話している間に、船通はそろそろと二人から遠去かっていた。頓原も船通には興味がなかった。出雲五真将として、仲間が助かったことを少しは喜ばなければならないかな、とさきほどの自分の考えを棚に上げて思ったぐらいであった。
 頓原は、二人の話を少しも聞き漏らすまいと耳をそばだてた。
「ふうん、出雲の中にも奈半利に忠誠を誓う者がまだいる、ということか……」
 頓原は考え深げに呟いた。それは聞き捨てならないことであった。奈半利は元々、出雲からの離反者で構成されていた。それに伊勢や戸隠の一族から加わる者がいた。だが、大半は出雲の一族だった者たちなのだ。それだけでも許せないことなのに、出雲の王国の中にいて、奈半利である者がいるというのか。それを排除しないかぎり、奈半利を滅ぼせないとは……と、頓原は憂鬱になった。こればかりは、己の器量の上を行くことを頓原は気づいた。
(宍道に伝えなければ……)
 と頓原は思った。出雲の王は木次であるが、すでに実質的な王は息子の宍道であった。そして、出雲で一番《力》を持っているのも、宍道であった。出雲では、王族は五真将になれない決まりがあった。それがなければ、頓原は五真将の第2位に甘んじたであろう。それを残念に思っている頓原であった。自分が一番でないことではなく、宍道が五真将になれないことを、であった。頓原は、自分の《力》がどれだけのものか判っているし、それを過大評価していなかった。だから、船通にもこの前のような口が利けたのだ。
 二人の話を聞きながら、そんなことを考えていた頓原は、何? と目をむいた。
「何故……」
 と呟いたまま、しばらく何も言えなかった。朝熊が魚梁瀬を倒さないままその場を去ったからだ。頓原には、朝熊が魚梁瀬を倒せることが判っていた。だから、朝熊がこの場で魚梁瀬を倒すことを確信していた。だが、朝熊は何もしないままいなくなったではないか。その行動は頓原の理解の範囲を越えていた。
 朝熊は何故、魚梁瀬を倒さないままにこの場を去ったのか。朝熊が魚梁瀬を助けたかったからか。それはおそらく違うだろう。では、何故か。魚梁瀬にまだ聞きたいことがあったからか。いや、それも違うだろう。聞きたいことがあるのなら、この場で聞いているはずだ。では、いったい何が朝熊をこの場から立ち去らせたのか。
 頓原はじっと考え続けた。朝熊が去る前に船通は逃れ、朝熊が去った後、魚梁瀬が立ち去り、頓原は一人になって考え続けた。
 何度も何度も二人の話を思い出し、そして朝熊の表情を思い出していた。朝熊の表情は僅かも変わることがなかった。きっとそれは、表面上のことだったのだろう。それは頓原にも判ったが、だからと言って頓原に朝熊の心の中が読めたわけではない。
「魚梁瀬の話……か」
 そのことについては、出雲としても至急に対処しなければならないことであった。頓原はそれから先にすませることにした。朝熊にはいつでも聞けるのではないか、そういうことであった。そしてその場を立ち去ろうとして、頓原は重大なへまを犯したことに気づいた。
「ああ……」
 と頓原は額に手を当てて嘆息した。魚梁瀬を尾ければよかった、そのことを悔やんだのだ。
「あああ、俺としたことが、何てドジ」
 肩を落とす頓原は、しかしいつまでも落ち込んではいなかった。失敗は失敗として認めるが、いつまでもそれを悔やみ続けはしなかった。そこまで頓原は愚かではなかった。
「ま、済んだことは済んだことで、とにかく戻るか」
 そう呟いて、頓原はその場からやっと立ち去った。


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