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船通は今日は、芥子色のハンカチを胸ポケットにさしていた。真夏でも真冬でも上着を脱ぐことなく、あるいはコートを着ることなく、パリッとしたスーツ姿であった。それに銀縁の眼鏡が目元に光り、その顔立ちと態度でエリートサラリーマンか、キャリアのような印象を受ける。
その船通が不意に振り返った。その顔色はない。
「出雲五真将の船通だな」
船通には彼を覆うバーガンディの靄がはっきりと見えた。船通にも見える、ということは、彼の《力》が途轍もなく大きいものだということなのだ。
「名を名乗ろう。奈半利の王、魚梁瀬だ」
驚愕が船通の背を走った。奈半利の王自身が出てきたというのか、そんな馬鹿な、と船通は思った。
「我らの一族の祖谷を葬り去ったのは、お前だな。お前程度の者に殺られるとは、祖谷は油断したらしい。私の手で消滅させられることを名誉に思え」
魚梁瀬の言葉を聞きながら、船通は眼鏡を外さなければ……と思っていた。だが、思うように手が動かず、魚梁瀬のバーガンディの靄が彼の右手の先に集まるのを、成す術もなく見つめていることしか出来なかった。魚梁瀬の右手にバーガンディの剣が握られていた。靄が剣に形を変えたのだ。
船通の手がやっと眼鏡にかかってそれを外そうとし、魚梁瀬の剣が船通を斬ろうとし、眩しい光が二人を包み、それが同時に起こった。光が去った後、二人はごく近くに向かい合っていたのだが、呆然としてその今までの相手を見てはいなかった。船通は眼鏡を外した状態で、魚梁瀬は剣を振り上げた状態で、二人の視線は光の発生した場所を向いていた。
「誰だ」
魚梁瀬は邪魔をされたことにいらだっているのではなく、その相手の《力》の大きさに驚いていた。船通は眼鏡をかけようとし、しかし魚梁瀬がごく近くにいることに気づいてそれを止めた。
彼は右手を顔の前から下ろした。
「伊勢の朝熊」
と彼は言った。そして、船通には目を合わせようとはせず、
「お前たちも名乗ってもらいたいな」
と言った。
「奈半利の王、魚梁瀬」
「出雲の船通」
と二人は答えた。ほう、と朝熊は魚梁瀬を見た。
「奈半利の王……か。どうやら痺れを切らした、というところだな。奈半利の王といえば、奈半利を束ねる要のはず。お前を倒せば奈半利はバラバラになるということだな。ちょうどいい、ここで終わりにしよう」
魚梁瀬が朝熊に向き直り(もはや、船通は目に入っていなかった)、その口をニィッと笑いの形に変えた。
「甘いな。奈半利は一枚岩ではない。もし私が倒されたとしても、奈半利は滅びることはない。奈半利が滅びるには、奈半利の一族すべてを消滅させ、そして、他の一族の中にいる奈半利の因子をすべて消滅させなければならない。それに、私とて奈半利の王、お前ごときに殺られることはない」
「他の一族の中にいる奈半利の因子?」
朝熊の眉が物憂げに動いた。魚梁瀬がそれを面白そうに見つめた。
「教えてやろうか、伊勢の朝熊」
魚梁瀬はそう言って、朝熊のほうに近づいた。船通はそれと同じように、逆に動いた。なるべく二人から遠去かろうとしていたのだ。船通は気づかれていない、と思っていたが、ただ単に二人は無視していただけであった。
「奈半利が三つの一族からの離脱者で結成されていることは知っているのだろう。だが、奈半利の王国にいるわけではないが、奈半利と同調しようとする者も多いのだ。その者たちは、それぞれの一族の中にいて、かつまた、奈半利の一族足らんとしているのだ。つまりは今のような時に、我らの力になることを約束している、ということだ。楽しみなことだな。じきに三つの一族は、中から崩れさるであろう」
魚梁瀬の言葉に朝熊は動揺していた。さすがに面には現さなかったが、心の中に冷たいものが通り過ぎたような気がした。魚梁瀬はそれに気づかない。表面上は何の反応も示さない朝熊に、少々落胆していた。
「伊勢の朝熊、奈半利の王を倒せるかどうか、試してみるがいい」
魚梁瀬の右手の剣が、さきほどとは較べ物にならないほどの《気》を放っていた。バーガンディの揺らめきが、朝熊の目に焼きついていた。
「奈半利の魚梁瀬、一つ聞きたい。伊勢の中にいる奈半利の一族とは、誰のことだ。名前は何と言う?」
魚梁瀬は少し剣気を収めると、迷いつつも喋りだした。
「判らぬ。何代か前の王の姉が、我らとその家の関係を気づき、その道を閉ざしてしまったのだ。その家はまだあるはずだが、そして、奈半利の一族であるはずだが、我らはその正体を知らず、連絡もとることが出来ず、今に至っている。安心したか、伊勢の朝熊。だが、その家が奈半利の一族であることを思い出したとしたら、伊勢は内側から滅ぶことになるであろう」
フフフッと笑って、魚梁瀬は言った。
「奈半利の魚梁瀬、その王の姉という人の名は……」
朝熊が低く言った。
「確か、安芸と言ったか」
「安芸……」
朝熊がそう呟いたまま、もう何も言わないことで魚梁瀬は話は終わったと理解した。魚梁瀬の剣が、再び《気》を放ちだした。朝熊がスッと右手を顔の前に上げると、
「奈半利の魚梁瀬、この勝負、預けた」
と叫んだ。魚梁瀬が逃すか、と剣を斬り下げたが、眩しい光がその動きを鈍らせた。
光が去った後、魚梁瀬は一人。朝熊はもちろん、船通もさっさと逃げていた。魚梁瀬はチッと舌打ちしようとして、右手の剣に気づいた。なかった。いや、ないわけではないが、小さくなっていたのだ。魚梁瀬の武器は、自分の《気》によって作りだした剣である。そのバーガンディの剣が、朝熊の光を受けたことによって小さくなっていたのだ。これは朝熊の《力》が大きいものだということだし、朝熊がその気になれば、魚梁瀬を倒すことはたやすいのではないか……そう思って、魚梁瀬は朝熊に勝負を預けられたのではなく、短い生を預けられたことに気づいたのだった。
「恐るべき……伊勢の朝熊」
魚梁瀬は呟いて拳を握った。自分に対してあれだけのことが出来たのだから、もしかすると、奈半利はこの朝熊一人に倒されるのではないか、そんな考えも出てしまう魚梁瀬であった。
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