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 祖谷は檮原から与えられた次の指令に満足していた。越知から聞いたところで想像する姿は、己の欲求を満たすことが出来るものであった。
「出雲五真将の船通……か」
 祖谷は妖艶に笑った。見る者を引きつけて離さない、そんな笑いであった。
 そして、その祖谷が船通に出会えたのは、それから3日後のことであった。
 祖谷の服装は、朝熊と会った時と同じ、臙脂のチャイナドレスであった。船通は相変わらずのスーツ姿に、銀縁の眼鏡をかけている。
「あの……」
 祖谷は少し小走りに船通に近づいた。船通がチラリと見る。それを思い切り妖しげな笑みで見つめると、船通の瞳が微妙に動いたことを祖谷は確認した。
(今度は上手くいきそうですね)
 祖谷は心の中でほくそえんだ。祖谷の《力》には、全く効かない者と絶対効く者との二種類に分かれている。例外は朝熊だけであった。
 祖谷の右手が船通の左腕を滑るように肩のほうに動く。船通の手からスーツケースが落ちた。深緋の靄がすでに二人を包んでいる。二人が出会った時点で、祖谷の結界が二人を囲み、他の人々から遮断していた。祖谷の唇がためらいなく、船通の唇を塞いだ。ねっとりと祖谷が舌を絡めるのに、船通がそれに応じた。祖谷の両手は船通の肌をまさぐるのに忙しく、祖谷の心は欲求が満たされるのを今か今かと待ち望んでいた。
 祖谷は唇を合わせたまま、チロリと上目遣いになった。妖艶な眼差しであった。祖谷のその眼差しで、思い通りにならない者はいなかった。しかし、今回は違った。祖谷は愕然としたまま、しかし動けなかった。船通と唇を合わせ、しかも舌を絡めたままの恰好で動くことが出来なくなったのだ。船通の眼鏡が、いつの間にか外されていた。レンズ越しでない直接の眼差しが、祖谷に向かってニッと笑う。深滅紫の瞳が祖谷を直視していた。
「奈半利の…方ですね。どうやら、私を出雲の船通と知って仕掛けてきたようですが、この間の、そう越知という方に較べると、私の相手には不足ですね。越知ならば、同じような《力》がありそうなので、戦い甲斐があると思っていたのですが、如何せん、全く同じ種類の《力》では勝負がつきませんからね。相手を代えようと話していたのですが、残念です、私の《力》があなたと同程度に評価されていたとは……」
 唇を離して、船通は言った。祖谷は目を見開いたまま、船通の言うことを聞いているしか出来なかった。
「私の唇を汚した罪は重いですよ。凍えていただきましょうか」
 船通の体が祖谷から離れる。深緋の靄はすでに消え去って、青丹の靄が祖谷を包んでいた。越知が熱い炎であるのに対して、船通は冷たい炎であった。それが、祖谷の体を焼く。船通の深滅紫の瞳が、それを冷やかに見つめていた。
「潜戸の代わりとしては、少々気に食わないのですが、しかたありませんね」
 再び銀縁の眼鏡をかけて、船通は呟いた。眼鏡越しの瞳は、黒いものであった。
「船通」
 と後ろから呼び掛けられた。船通がスーツケースを手にして振り向く。そこにいたのは頓原であった。船通はスーツケースの埃を叩くと、
「何か用ですか」
 と言った。誰に対しても敬語を使う船通であった。
「お見事」
 頓原がそう言って、パチパチと手を叩いてみせた。船通は憮然とした表情で頓原を見返す。
「あれ、茶化してるって判った? いくら船通が五真将の中では《力》が小さいといっても、その深滅紫の瞳を持っていることは強いよね。俺だって、その瞳を直視しようとは思わないもの。でも、それが弱みになることもある……」
 クスクスと笑って、頓原は言った。
「頓原、何が言いたいのです」
「べっつにー」
 頓原はその手をGジャンのポケットに突っ込んだまま、船通の前に突っ立っていた。
「ところでさー、俺、伊勢と手を組むことにしたから。船通もその手に乗るかい」
 船通の頬がピクリと動く。
「伊勢…と? 頓原、あなたは何を考えているのですか」
「あれ、気に入らない? おっかしーなー、いい手だと思うけどね、俺は」
 頓原は、にこにこ笑ってポケットから手を出すと、頭の後ろで組んだ。
「他の一族の手を借りるなどと、気でも狂ったのですか、頓原。奈半利を滅ぼすのは、出雲の責務です」
 船通が憮然とした表情を消さぬまま言った。
「古いよねー、今時。船通、お前、自分の《力》だけで奈半利を滅ぼせると思っているんじゃないの。お前の《力》がどれだけ小さいものか、まさか、忘れているわけじゃあるまい。まあ、斐川や潜戸に較べれば大きいものだけど、出雲五真将が数合わせであることは、お前もよーく判っていると思っていたけどな。船通、俺だったら、同じ種類の《力》を持っている相手を倒すことも出来る。お前が絶対に越知を倒せないのは、お前の《力》が小さいものだからさ。まあったく、情けないよなー。それなのに自分たちだけで奈半利を滅ぼせると思っているんだもの」
 思いっきり蔑んだ目つきで、頓原は船通を見つめていた。船通はその表情を怒りに変えていた。ブルブルと震える拳が、その怒りの度を表していた。
「船通、そんなに死にたければ、勝手に死ねばいい。俺は絶対に助けないぞ。奈半利がその気になれば、出雲五真将が二人になるまで、それほどの時間は必要ないんだ。その優等生面が、お前の死期を早めるのさ」
 頓原は肩を竦めて、船通から目を逸らした。
「頓原!」
 船通の叫びが頓原の背を打った。面倒くさそうに頓原が船通を振り返った。それに、青丹の靄が襲いかかる。頓原が軽く右手を振った。すると、青丹の靄は瞬時に消え去った。
「船通、お前は何をしているんだ。俺を相手にしても、俺に傷一つつけることは出来ない。それを判っていながら、その《力》を俺に向けるのか」
 再び頓原は船通に背を向けて、今度は歩きだした。
「まあったく、みんな、頭が固いんだから……いやんなっちゃうよな」
 ぶつぶつと頓原は呟いて、船通から遠去かった。船通は、呆然とした表情でそれを見送っていた。


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