朝熊は倭に近づくと、ギュッと抱き締めた。
「朝熊、苦しいよ」
 倭が笑いながら言う。腕を緩めた朝熊は、そのまま両手で倭の首を締めた。倭が目を見開いて、驚いた顔で朝熊を見つめる。
「朝熊、何……」
 苦しげな表情で、信じられないという色を含める。朝熊の顔がニヤッと笑った。
「あ…さま……」
 やがて、倭の瞳に生気がなくなり、それでもしばらく朝熊は力を緩めなかった。
「死んだか」
 ポツリとそう言って、やっと朝熊は倭から手を離した。
「これも、すべて、………のため」
 と朝熊は言った。
 そこで、朝熊は目を覚ました。びっしょりと汗をかいている。
(何て夢だ……)
 信じられない夢であった。自分が倭を殺すなど。夢を見ること自体、信じられない、許せないことであった。誰が見せているのか。朝熊は、自分でも気づかない無意識の世界で、そんなことを考えているのか、と恐ろしくなった。
(これは、逆夢なのだ)
 と朝熊は考えようとしていた。全く逆ならば、倭が朝熊を殺すことになるのだが、それならば自分が倭を殺すことに較べれば、許せることなのだ。夢が正夢なのか、逆夢なのか、それとも全くの夢なのか、今は誰も知ることが出来ない。
 朝熊は隣のベッドに寝ている倭を見つめた。薄暗さの中に浮かぶ顔を見て、僅かに目を細める。
「私はどんな形でも、お前を守るから」
 呟くように朝熊は言って、倭の布団をそっと直した。そして静かに着替えをすませて、ドアを開ける。その部屋の椅子に座っていたのは、高屋であった。
「これは……高屋様」
 朝熊はそっとドアを閉めた。高屋はテーブルに鏡を置いて、馴れた手つきで頭を剃っているところであった。見事なスキンヘッドは、こうした毎日の努力の賜物なのだ。
「早いな、朝熊」
 驚いた顔をしている朝熊を横目で見ながら、高屋は剃刀を置いた。相変わらず紫黒の服を好み、朝熊が黒を好むことから、同じような好みであると言えないことはない。
「どうなさったのですか、高屋様。伊勢で何かございましたか」
 朝熊が高屋に会うことはほとんどなかった。話すこともこれが数えるほどのうちの一回でしかない。高屋は首を振った。
「別に、伊勢で何かあったわけではない。私が外に出てきたかっただけだ。たまには伊勢の守りの外で、己の裁量だけで生きてみたくもなる。それにもはや、阿品の存在する意味がないからな」
 朝熊は高屋の言葉に、非難がましい視線を向けた。それに気づいて、高屋が頭をつるりと撫でた。
「朝熊、私はお前に会いにきたのだ。伊勢の行末は、倭の肩にかかっている。他の誰にも代えることが出来ない。それを忘れずに倭を守れ。私は阿品という地位についているだけで、他には何の《力》もないのだから。いいか、朝熊。倭は伊勢にとって、都合のいい《力》の持ち主なのだ。透明の方を見つけ、それを守れるのは倭しか出来ないのだ。朝熊、私が言うことは真実だ。倭は、伊勢にとって、代替えのきかない消耗品なのだ」
 高屋はテーブルの上を片づけながら、そう言った。
「高屋様……」
 朝熊の声が低く響いた。高屋が座ったまま、ジロッと朝熊を見つめる。
「私は、安芸様のことを知らない。だから、安芸様がお前の家に何故、倭のことを頼んだのかを知らない。何の意味もなかったのだろうか、それは。安芸様は巫覡ではないが、より巫覡に近かったという。いや、巫覡というより、我が神に近かったという話ではないか。朝熊、何故安芸様は、倭のことを知っていたのだろう」
 朝熊は高屋の前に座った。
「高屋様、それはいったい……」
 確かに朝熊にしても、安芸のことを知っているわけではないのだ。それを疑問に思うわけではなく、今の状態を続けたいと思うのは、倭が倭であるからであった。倭が倭でなければ、朝熊は安芸の言葉を守ろうとは思わなかったであろう。
「さて」
 と高屋は立ち上がった。
「倭には、私が来たことは言うな。お前もそのほうがいいと思うだろう」
 朝熊は少々納得がいかない表情で、でも頷いた。
「高屋様、伊勢から出てきたのは、私に会うためだけですか。他に何か目的があったのでは……」
 朝熊の問いに、高屋は笑った。
「まあ、それについては、謎、ということにしておこうか」
 高屋はそう言いつつまた笑った。やはりそうか、という顔をして朝熊も笑った。
「伊勢の中だけでは、物足りなくなった、ということですね」
 高屋は笑って出ていった。朝熊は座ったままそれを見送った。
 倭が起きたのは、それから2時間後のことであった。


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