そして、祖谷は檮原の前にいた。朝熊にもう少しで殺られそうになるのを、目眩ましによって逃げだし、どうにか戻ってきたのであった。
「ほう、伊勢か。やはり、布城崇に目を付けていたか。ま、当たり前であろうな。伊勢にとっては、何にも代えがたい存在であろうからな。我らとまた違う意味で、彼には目覚めて欲しいと願っているであろう」
 祖谷から朝熊のことを聞いた檮原は、そう言って考え込んだ。
「檮原様、伊勢の朝熊という男、私の《力》が効かないとなれば、越知か檮原様に任せるしかありません。私にとっては悔しいかぎりですが……。しかし何故、あの男には私の《力》が効かなくなったのでしょうか。今までそんなことはあり得なかったのに」
 祖谷が悔しそうにそう言う。檮原が祖谷を見て、ふむ、と呟いた。
「一度は効いたのに、二度とは効かぬ、か。面白いな。わしらのように、全く効かぬこともあるから、そういう者もいると考えるしかあるまい。まあよい。その朝熊という男のことは、わしか越知で始末をつけよう。祖谷、そう言えば、お前の《力》は男にしか効かぬのか?」
 祖谷はフフフと妖しく笑った。
「そんなことはございませんわ。女にももちろん効きます。ただ、私が男のほうのほうが好きなだけですわ」
「そうか。とりあえず今日は休め。明日にでも新しい指令を与えよう」
 檮原はそう言って手を振った。祖谷が一礼して去っていった。
「越知」
 檮原は祖谷が出ていくとそう言った。
「何か?」
 突然に青磁色の球体が檮原の目の前に現れた。ふわふわと浮かんでいるその中には、一人の青年があぐらをかいて座っていた。短く刈り込んでいる髪はオレンジに染められ、黒い瞳は光の加減でときおり青く光っている。それは、青いコンタクトレンズを入れているのであって、全くの越知の趣味であった。ランニングシャツの上にジャケットをはおって、暗緑色のズボンを履く姿を見ていると、とても24歳とは思えなかった。20歳よりは若く見える。
「お前はどうしたい? 祖谷の言う伊勢の朝熊を始末するか、それとも出雲五真将を始末し始めるか」
 越知はふわふわと浮かんでいる青磁色の球体の中で、足首を掴んで同じようにふわふわとしていた。それを見ながら、こいつは船酔いにはならないだろうな、とふと檮原は思った。
「檮原様、それは愚問とゆーもんです。伊勢は我らを敵とはみなしてない。少なくとも布城崇に手を出さないかぎり。祖谷が朝熊とかいう伊勢の一族に手を出したのは、全く祖谷の出すぎた真似、ちゅーことやね。アホなことを、としか言いようがないわ。それで朝熊を始末しとけばまだしも、殺られそうになったゆーことやろ。だいたい、祖谷には向いてない。あいつは顔のいい男を見ると、自分の使命を忘れるんやから。祖谷は里に帰して、他の奴を呼んだほうがいいんやないか」
 檮原は僅かに眉をしかめた。判ってはいても、越知の関西弁を聞くのはどうも気が進まない。奈半利は関西にはないので、これも越知の趣味なのだ。越知の関西弁を頭の中で標準語に直して、檮原は首を振った。縦に。
「そうだな、そのことに関しては前々から考えてはいるのだが……。ともかくも、今は我ら三人しかいないのだ」
 越知はオレンジ色の髪を振った。
「ま、とにかく、その朝熊って奴はほっときましょ。出雲五真将を一人ずつ始末して、話はそれから、ということで手を打ちましょうか」
 楽しそうに笑いながら、越知は言った。檮原が頷いて、紙の上に一人の名前を書いた。越知はそれを見て頷き、パチッと指を鳴らす。ボッと瞬く間に紙が灰に変わった。
「明日中にすませましょか」
 越知が楽しそうに言って、そして、青磁色の球体ごと揺らめいて消えた。
 檮原は一人になって、立ち上がったままじっと動かなかった。璃寛をその手で殺してから、霧島家を訪れてはいなかった。奈半利の、魚梁瀬の指令は、最初から璃寛を始末することだったのだが、檮原はあえてそれに反する行動を取っていたのだ。魚梁瀬が欲しかったのは、最初から麻績であって璃寛ではなかった。それを知っていながら、檮原は璃寛を助けたかった。弟のように思っていた璃寛であった。璃寛も、檮原を兄と慕ってくれていた。だから、檮原は命令を無視してでも、璃寛とともに行動したかったのだ。だが璃寛は己の手にかかり、魚梁瀬の最初の思惑通りに、麻績が霧島家を継いだ。麻績が、はたして魚梁瀬の思惑通りに動いてくれるのか、いや、それを動かしていくのが、檮原の課題であった。霧島家に行かなければならない、と思いつつも、足が重い檮原であった。しかし、それをやらなければならなかった。彼は、奈半利であるのだから……。奈半利の檮原としてしか生きられないのだから。


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